続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

そうだったのか。

2017-06-11 07:26:08 | 日常

 膝痛持ちだという自覚があるので、足の不具合は膝からの痛みを疑い、他を考えたことがなかった。
 思えば三年ほど前、「歩こう会」で十数キロの行程に及んだ時の数日後、歩行困難に陥っている。あの時は足を地につけることが出来ないほどの辛さがあったものの、(明日は治る)という楽観が先行し、何とか乗り切った。けれど、半年近くを耐え、その後もスッキリ治癒したわけでなく、鈍痛が続き今に至っている。

 その原因である医師から指摘された《血栓》に思い至らなかったのは、食事には十分気をつけているという変な自信があったからで、まさかの指摘に、わたしの不健康の要因がはっきり浮上。

 病院通いの知人を大変だと思っていたけど、わたし自身も大変な境遇になっている。
 ああ・・・生きて行くって大変!!
「出嫌いだから…」なんて言ってないでどこへでも出かけて運動不足を解消しなければ、閉塞的な生活に原因があるなんて、ああ・・・。


デュシャン『泉』②

2017-06-11 06:55:40 | 美術ノート

 『泉』

 排泄を注ぐべきところ(物)であり、社会の約束(ルールとして)の場である。
『泉』(fountain・噴泉)に対し、吸収である「小便器」を(泉)と名付けている。即ち《循環》を意味づけたこれは、水地球の億年の一刹那の提示である。

 他の生物と異なり《恥辱》への目覚めを持った人間という唯一の類の証には、恥部(排泄)を見せる行為は決して他人に見せてはならず、覗くものでもないという禁止条項がある。
 法律以前の人としての規律、本能としての隠ぺいは人知の原初にほかならない。

『泉』とタイトルし、作品として衆目の場に提示したデュシャンの《生命の根源への問い》は、暗くて深い深淵へのスポットライトである。


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)


『城』2663。

2017-06-11 06:36:08 | カフカ覚書

〈従僕のようにお元気で〉というのが、お役人たちが乾杯などのときに使う挨拶の言葉です。事実、暮らしむきの点では、従僕たちこそ、お城のほんとうの主人だということです。


☆〈死人のように行きましょう〉というのが役人たちの呪文でした。実際、死人こそがほんとうの死界の大群なのです。