だれも止められないわたしの劣化。
まったくもって自然の理である。自然に抵抗しようとすること自体滑稽かもしれない。
油切れした身体のギシギシ、階段を駆け下りた日はすでに遠い幻。返ることはない。
「もう少し、もう少しの辛抱」なんだろうか。
デイサービスの車にやっとという態で乗り込むAさん(87歳?)を見ていたら、つくづく悲しくなってしまった。Aさんとて手をこまねいてこの状況になったわけではない。外出好き、どこへでも出かけ、最近ではバスなどは見ず知らずの人に臀部を押し上げてもらっての乗車。それでも出かける意欲満々だったのに…。
「膝の手術を望んだけれど、心臓の欠陥のため断られたの。なんとしても手術したかったわ」という。
教師を務めあげた後は、俳句に短歌・油絵にコーラスそしてボランティア…精いっぱいの頑張り、それでも・・・。
何としても歩き通して人生の終盤を迎えたい。望みはそれだけ、だから…明日の「歩こう会」なんとしても参加させてもらわねば・・・挫けそうな気持に鞭打っている。
『チョコレート粉砕機』
チョコレート粉砕機を模した(ヒントを得た)チョコレート粉砕機ではない物である。
チョコレート粉砕機は有用な機械であるが、この絵のチョコレート粉砕機は無用の図形に過ぎない。欠陥だらけという前に存在自体すら危うい構成を敢えて成している。
機械は床面に設置されているという思い込みがあるが、心棒によって吊り下げられている可能性もなくはない。
三つのローラーは中心が持ち上がり外部へずり落ちていく感があり、回る(回転)ようでいて、回ることを可能にしない機械である。
タイトルを見た後に絵を見ると、一見『チョコレート粉砕機』に見えるが、『非・チョコレート粉砕機』である。
この絵において、円板やローラは回り心棒は支える、という概念が先行する。しかし、よく見るまでもなく、形を留めることさえ困難な構成であることが分かる。
(イメージさせるべきタイトル)と(イメージを崩壊させている作品)を結びつけている。
ここにあるのは(疑惑と落差の心象)である。心理的な亀裂をまさに写実的に甘受させる仕組みがここにある。
狙いは《見えないものの写実》であって、見えているものは虚偽であるという逆説である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「うつむけに倒れておいで。ひゆう。動いちやいけない。ぢきやむからけつとをかぶつて倒れておいで。」雪わらすはかけ戻りながら叫びました。子どもはやつぱり起きあがらうとしてもがいてゐました。
☆等(平等)同(平等)等(平等)の説(はなし)である。
霊(死者の魂)、幽(死者の世界)、教(神仏のおしえ)の旨(考え)を記している。
それで、もしかしてべつのお役人の従僕たちのなかに見つかるかもしれませんし、当人が見つからなくても、ほかの従僕たちから情報を手に入れる可能性ぐらいはあったでしょう。
☆先祖の他の死人たちを見つけることができるかもしれませんし、見つからなくとも他の死人たちから消息をを知ることができるかもしれません。