生老病死、生・老・病まできたら、Xデイは間近?
何だか儚いけど、宿命というものを重く受け止めている。健康でいたところで、30年は持たない身体。多少短くたって問題はない。
ああ、「思えばここまで来たもんだ」という感想。完走しきれるような優等生ではない。
総合病院の初めての患者、ちょっと緊張しているし、すごく落胆している。
でも、頑張ってラジオ体操には行こう!(写真は先日満期でいただいた虫よけリング)
『自転車の車輪』
自転車の車輪だけが椅子の上に置いてある。白い椅子、黒い車輪、ただそれだけ・・・。
何を表現しているのだろう、形態に関していえば美しく完成されたものであるが、自転車の部位である以上、補いのつかない未完成品にすぎない。
タイヤを外されたリムからハブに何本ものスポークが出ていて、美しくも圧に耐える構造であるが、地面(床)に着くべき車輪が宙を向いている哀しい光景。
無為・徒労・意味の剥奪、正負で考えるなら、負の構築であり正の要素に著しく欠ける対象を作品として提示している。
存在していることは認められるが、存在の論拠がない。無用の長物、無意味な産物、使用不可であり所有欲をもそそらない代物である。
鑑賞者がため息をつき、素通りするしかないこの『自転車の車輪』はデュシャン自身の自画像ではないか。世間を欺くような自虐的な傾向はあるけれど、率直に
「ただ、これきりのわたくしでございます」と、言っているような気がする。(椅子の白、車輪の黒は、弔いの色を想起させる)
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「ひゆう、もつとしつかりやつておくれ、なまけちやいけない。さあ、ひゆう」
雪婆んごがやつてきました。その裂けたやうに紫な口も尖つた歯もぼんやり見えました。
☆説(話)の場は烈(順に並んだ)祠(神仏を祭る場所)である。
光が旋(ぐるぐる回る)祠(神仏を祭る場所)が現れる。
彼らも、自分の値うちをよく知っていて、掟のもとで出処進退をするお城では、静かに、上品にかまえています。これは、何度も確かめたことですから、間違いありません。
☆彼らも評価を知っていて、死を冷静に受け止めています。いろいろ確認したのですが、死の下でもやはり名残(未練)があります。