生きるとは闘いかもしれない。
戦意をもって勉強に打ち込んだことがないわたしだけれど、近頃は自身の体力と戦っている。
見渡すかぎり日々集積される埃は老眼のため見過ごされているが、心のうちでは焦りと義務感からストレスになってわたしを打ちのめす。
もっと手の込んだ家庭料理をと思っても、ワンプロセスの簡略総菜。
片付けも問題を残したまま・・・。
あらゆることが後手後手に回り、その見えない(見えてる?)猛威と戦っている。
若くはない、老いたのだと悟り、全てを捨ててしまう覚悟が必要かもしれない。
何と寂しいことを呟いているのだろう。この薄汚れた精神こそばっさり切り捨てなければ…そう思いつつ・・・身体の劣化に打ち負けている。
『3つの停止原基』
非常に丁寧に造られた年代物の木組みの箱である。にもかかわらず、金具が取り付けられている。現物を見ることが出来ないので想像の範囲であるが、蓋や仕切り版は後から付けたものかも知れず、留め金は、貧弱かつ向き(縦横)が間違っているので、しっかり止めることは難しい。
手前に置かれた3つの原基らしきものは、偶然できた線条の固定であり、基準には遠い。
この奇妙な線条を固定した原基(?)を収納する箱は、重厚さと軽薄が混同し、整然としてもいるという不可思議なものである。
混然一体、自由意思…とうてい原基とは名付けられないものを指して『3つの停止原基』と名付けている。このタイトルを翻訳すると、
『3つ(任意)の原基では無い物』ということではないか。停止は使用不可に等しい。
観念の否定、通念を覆す無常、デュシャンの作品には胸を衝く寂寥感がある。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
子供はまた起きあがらうとしました。雪童子は笑ひながら、も一度ひどくつきあたりました。
☆詞(言葉)の教(神仏のおしえ)の鬼(死者)の説(話)は同(平等)の旨(考え)であり、照(あまねく光が当たる=平等)が逸(隠れている)図りごとである。
フリーダは、それに手を焼きました。それで、従僕たちをおとなしくさせるのにわたしを使えることは、フリーダにとって願ったり叶ったりだったわけです。こうしてわたしは、二年以上もまえから、すくなくとも週に二度は従僕たちといっしょに馬小屋で夜をすごします。
☆フリーダ(平和)には死は非常に辛かったので、予言者は彼ら(死人たち)に歓迎されたのです。強制の傷痕は暗雲を運び、死の場所は小舟だったのです。