みんなは無事に暮らしているだろうか、などといつも自分以外のことに思いを潜めて暮らしているけれど、いざ自分の不具合が露呈してみると、自分の健康こそが、みんなに迷惑をかけないための基本だということが分かる。
劣化(老化)していく自分と折り合いをつける。痛みや不具合がこのまま続行していくならば、ありのままに受け入れるべきかもしれないし、治癒するのなら治すべき義務がある。
けれど、植物の葉の虫食いを見ても、自分と照らし合わせ、修復不可能を悟る。ついこの前までの《楽観》はどこへ捨ててしまったのだろう。
友人に映画を誘ってもらったけど、「エコノミー症候群です」という医師の言葉を思い出し、映画館での同じ姿勢はいけないかもしれないし、何より気力が失せて断ってしまった。
これより先、何事にも消極的に降下していくのだろうか。病気(不具合)は悪魔のささやきを拡大する。病気という列車に乗り込んだわたしは、恐れながらもその景色に興味津々でいる。
『罠』
木製コート掛け、床に固定、とある。
本来、壁に然るべき高さ、床と平行に設置されるべき物である。しかし、使用目的に適った位置を外し床に固定するとは、有効なものを無効にし、さらに障害物と化している。
しかも動かせない、どかすことが出来ない邪魔な物としての状況を作りだしている。
(コート掛け)、さほど重要ではないが、あれば便利であり、整然と見える暮らしの知恵である。しいて言えば、無くても済む物でもある。床に落ちていても拾い上げ私物化しようとする確率は極めて低いと考えられる。
そんな物が自由に歩くべき床に障害物のように設置されている。ストレス以外の何物でもない(どかすべき物)としての存在物・・・それが、わたくし(デュシャン)である。
デュシャンの自嘲であるが、『罠』は《大いなる問答》である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「倒れてゐるんだよ。動いちやいけない。動いちやいけないつたら。」
狼どもが気ちがひのやうにかけめぐり、黒い足は雪雲の間からちらちらしました。
☆等(平等)同(平等)同(平等)朗(曇りがなく明らかな)鬼(死者の魂)を告げる。
即ち、説(話)は蘊(奥義・神髄)を現わしている。
もはや掟ではなく、飽くことを知らぬ衝動に支配された、乱暴で手に負えない烏合の衆になってしまうのです。
☆分別を失くし狂暴で反抗的になり飽くことを知らない欲求が、民衆を支配するようになります。