昨日何気なく書いたものを読んで、即、電話をくれた妹。
病院から帰り寛いでいると再び電話。
「心配しているの?」
「当たり前でしょ!」
そうか、こんな愚姉でも心配なのか・・・。
ありがとう。
感謝しています。
亡母に付き添って病院通いをしたころは、率先して(ああしてこうして、今度はこっち)などと指示していたのに、自分のことになるとさっぱり痴呆状態。
機械から出てきた紙に指示があったのに、見ないでバックに入れ循環器科のドアの前で一時間半もぼんやり待っていた。(なんで呼ばれないんだろう)病院というところは何時間も待たされると聞いていたから、こんなもんだと・・・。
ふとバックを開けてみると、さっきの紙片は「指示書」、慌てて検査室へ直行。
一時間も前に到着していたのに、30分も遅れて窓口へ。
こんな間抜けの患者に関係者はすごく優しく「それはお待たせして・・・」と。
ハイ、この次からはちゃんとします。
子供のように反省したことでした。(病人はパニック状態だから、なるほど付添人がいるわけだと納得)
『泉』
便器(小便器)の提示である。
圧倒的なインパクトゆえに、目を逸らし、違和感を感じざるを得ない作品。
「これが、何なんだろう?」
生活の要、生きることの基本。
排尿なしに生きることは不可能であり、《生きることは排泄すること》であるという逆説的な見解。
白く美しい陶器であり未使用に違いないけれど、触ることさえ憚れ、厭わしく感じてしまう便器という周知の対象物。
この作品提示の意味はどこにあるのだろう。
ズバリ、万人における《生理への問いであり答》である。隠蔽(秘密)したい恥ずべき行為のベールを暴力的に引き剥がして見せている。
日常的に使用する便器に抱く感想、必須の物でありながら衆目の下に曝すべきではないという最大の振り幅を持つ心理的距離間。
『泉』は鑑賞者の心理的距離間(空間)を図る試薬であり、本質的な問いである。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)