『急速な裸体に囲まれた王と王女』
この絵の不思議は光源が不明なこと、床面・天井・壁といった空間を限定するものがないことであり、この状況の立地面が断定不能なことである。
浮いているはずはないという思い込みがあるから床面を想定し、その上タイトルにある裸体と王と王女をいずれかに認定しようと努める。わずかな要因を見つけ(これに違いない、あるいはこれがそうかもしれない)という不確定さのまま無理にも納得しようと試みる。
(裸体に囲まれた)ということは、裸体が複数であり、中心に王と王女がいるということであるが、その要因を見いだせない。
鑑賞者は、タイトルと描かれた作品は同値だという前提で見ているから、そのギャップを埋めるために視覚を歪めるという暴挙に出る。なんとしても辻褄を合わせることに集中するが、曖昧なまま決着をつけざるを得ない。
鑑賞者は『急速な裸体に囲まれた王と王女』という仮想を、作品の前で作り上げ作品に被せる。二重構造ともいうべき体験を強いられるわけである。
だから《何なのだ》という結論・目的は、客観的見地から推したならば《無》であり、確かに(それ)を見たかもしれないが、内実は空無である。
デュシャンは《鑑賞者自身が見る幻》を設定したのかもしれない。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
雪婆んごのふりみだした髪が、その顔に気みわるくさりました。
雪婆のごはセツ・バと読んで、設、場。
髪はハツと読んで、発。
顔はガンと読んで、願。(あるいはfaceからFaith)
気みわるくはキと読んで、記。
☆設(こしらえた)場を発(明らかにする)信仰の記である。(あるいは願いの記である)
けれども、わたしも、引きさがってはいませんでした。それで、父のほうでも、しだいにわたしの考えに妥協するようになってきました。父にとってただひとつの難点となるのは、この件では完全にわたしに主導権を取られるということでした。と言いますのは、あのとき使者を見たのは、わたしだけで、父は使者を知らなかったからです。
☆けれども、わたしの止めませんでした。彼はしだいに太陽に感謝するようになったのです。父(宿命)にとっての妨げは、この件に完全に依存したということです。当時、小舟を見たのはわたしだけで、父は知らなかったからです。