幾つかの紙芝居を見て感じるのは、時代はもうずいぶん変わっているのだということ。
たとえば「からかさ」といっても、唐傘を思い浮かべられない。わたしでさえ辛うじてわかる年代、まして今の子供には無理かもしれない。
「おやゆびひめ」を昨日読んでみて、(可愛さ)ならキラ星のアイドルたちがいて、実感が今一つわかないかもしれない。
「マッチ売りの少女」も、マッチをなぜ街頭で売るのかが理解できない現代。
名作も古典になり、すぐに共感できるものではなくなっている。
テレビ・アニメが傑出しすぎて、紙芝居の素朴さは、じり貧状態になっているのかもしれない。
でも、そんな時代だけど、わたしが女の子たちに紙芝居を見てもらったら、目が輝いて、眩しいほどの眼差しだった。
単に物珍しいだけなのかな・・・。
『ボトル・ラック』
タワーの基本的な構造である。偏って物を加重しても倒壊しない力学的観点から造られている。頑強さを兼ね備え、美しいとさえ言えるこのボトル・ラック。
しかし、ボトルを挿す突起は一見頑強そうに見えるが、一定以上の重さに耐えられるとは考えにくい。力点が貧弱で力の分散がない。
ボトルを空にすると言っても、垂直に倒立させた方がいいし、斜めでは時間がかかる上、衛生的にも問題は残る。(再使用の場合、煮沸が必須)
なるほど便利そうな品物ではある。美しく頑強そうに見える構造…しかし一般家庭で数多の瓶を空にする光景などあるだろうか。しかも突起の接着面はどう考えても脆い。長い時間を要せずに不用品になることは必至。
存在感ある物であるが、存在理由を疑うしかない物である。在る、が無くてもいいし。要らない末路を辿るしかない物を、デュシャンは〈その空無〉に愛着をもって〈自身〉を重ねたものと思われる。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
雪わらすは同じとこを何べんもかけて、雪をたくさんこどもの上にかぶせました。まもなく赤い毛布も見えなくなり、あたりとの高さも同じになつてしまひました。
☆説(話)を導く化(形、性質を変えて別のものになる)を接(つなぐと)照(あまねく光が当たる=平等)の釈(意味が明らかになる)。
亡(死)は普く幻(まぼろし)の講(話)であり、道(神仏の教え)である。
こういうわけで、わたしの計画は、ほんとうは失敗におわったことになるのですが、それでも、完全な失敗だったわけではありません。たしかに、わたしたちは、まだあの使者を見つけてはいません。
☆要するに、わたしの計画は失敗でした。でも完全にというわけではありません。たしかにわたしたちは、まだあの小舟を見つけていないのですから。