『秘められたる音』
この作品は《わたくし自身=デュシャン》である。
12.9×13×11.4㎝…いかにも小さい、どこからも眺め渡すことが可能であり、チンケといってもいい代物であるが、2本どころか4本の足を持ち、動じることはない。
上からの圧迫は承知しているが、下からの支持も厚い。即ちわたくしの作品提示に共鳴してくださる方々の応援もあるということで、頑強にネジ留めされた不動に支えられている。
上下の真鍮板(金属)は熱しやすく冷めやすいという特質があるが、幾重にも巻かれた紐の玉の劣化(生命)に比べれば、真鍮板(鑑賞者/大衆)の存在は永続的である。
幾重にも巻かれ閉じられた紐の玉はわたくしの思考の痕跡であり、一筋の論拠に確信を以て臨んでいるが、否定を余儀なくされることもあるかもしれません。。
しかし、わたくし(紐の玉)は上下からの賛否に束縛されているわけではありません。なぜならサイドの四方は解放されており、紐の玉(わたくし)の柔軟性をもって自由は約束されているからです。
このようなきわめて小さな紐の玉(わたくし)ではありますが、『秘められたる音』である内包のエネルギーを抱いております。それは《存在》に対する凝視の眼差しである有無への根源的な問いであり、空間と時間の方向性を問うものであります。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
その眼は闇のなかでをかしく青く光り、ばさばさの髪を渦巻かせ口をびくびくしながら、東の方へかけて行きました。
野はらも丘もほつとしたやうになつて、雪は青じろくひかりました。
☆願いの案(考え)である照(あまねく光が当たる=平等)の講(話)である。
発(明らかにする)で、化(形、性質を変えて別のものになる)を換(入れ替える)講(はなし)は、等(平等)の法(神仏の教え)の講(話)也。
究(つきつめる)説(話)は照(あまねく光が当たる=平等)である。
村でつきあった相手となると、なおさらそうにちがいありません。馬小屋のなかでは、お城で会えるときを楽しみにしている、などと調子のいいことを何百回も言っていた人たちがね。
☆村(死の入口付近)で行き来し、百の傷痕を持つ立場で、城(本当の死)で再び会えるよう懇願しているのかもしれない。