『自転車の車輪』
『自転車の車輪』とタイトルがあるので、車輪が対象(作品)であり、スツールは付属のように思うが、合体としての作品であることに気づく。
スツールの上の使用不可である自転車の車輪の滑稽。
タイヤを外された役に立たない車輪が白く塗られたスツールの上に持ち上げられ、鎮座している。シンプルで美しいとさえ感じるこの光景の無意味。
これは正しくデュシャン自身としての告白である。
もてはやされているが、わたし自身はまったく無意味の証明に明け暮れているに過ぎない。
《存在しているが非存在である》《非存在のように見えるが存在している》
この表裏、不可逆を逆に覗く見えない暴力…空転の車輪そのもののようなわたし(デュシャン)。
この作品はデュシャン自身のための証明である。
(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)
「おや、をかしな子がゐるね、さうさう、こつちへとつておしまひ。水仙月の四日だもの、一人や二人とつたつていゝんだよ。」
「えゝ、さうです。さあ、死んでしまへ。」雪童子はわざとひどくぶつかりながらまたそつと云ひました。
☆詞(言葉)で推しはかる千(沢山)の月の姿には秘(奥深くて計り知れない)が溢れている。
図りごとは普く忍ばせた旨(考え)で接(つなぎ)、導く詞(言葉)で運(めぐらせている)。
この村へやってきても、従僕たちのあいだにその名残りがかすかにみとめられることがあります。もっとも名残りにすぎませんけれども。ふつうは、村へおりてくると、お城の掟ももはやあの人たちを完全には拘束しないものですから、まったく人が変ったようになります。
☆村(死の手前/本当の死ではない)へやってきてもその名残り(未練)を見ることはあります、ただの未練ですが。この死の掟は来世ではいかに改めようとも全く通用しません。