続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)六月の。

2021-08-02 07:11:57 | 飯島晴子

   六月の衿に近くて山の空

 六月はム・ツキと読んで、謀、付き。
 衿に近くてはキン・キンと読んで、襟、経。
 山の空はセン・クウと読んで、詮、空。
☆謀(はかりごと)の付き(運)は襟(心の中)にある。
 経(常)に詮(明らかにすること)は空(ない)。

 六月はロク・ガツと読んで、録、合。
 衿に近くてはキン・キンと読んで、経、襟。
 山の空はサン・クウと読んで、惨、空。
☆録(書いたもの)を合わせると、経(つね)に襟(心の中)である。
 惨(みじめな)空(むなしさ)がある。

 六月はロクガツと読んで、六月。
 衿に近くてはキン・キンと読んで、近、近。
 山の空はサン・クウと読んで、燦、空。
☆六月は近近(近々)燦(煌めく)空になる。(六月は近々煌めく空=夏空)になる。


D『三つの停止原基』2。

2021-08-02 06:37:26 | 美術ノート

 そもそも停止原基とは何だろう。偶然の一刹那・・・。
「世界の始まりは《まったくの偶然》であって、どこかに《決定的な必然性》があったわけではない」という暗喩だろうか。

 一つの偶然が二つになり、三つになる、偶然が必然になる条件である。偶然こそが永遠の原基であり、動かしがたい時空の証明を孕んでいるのだろうか。二度と再びその形をなぞることができない、その形につて言及することもできないという不確定。

 この作品を前にして、丁寧に設えられた保管箱の厳重さは尊厳にも等しいほどなのに、容易に開けることも可能なのである。解放された秘密の不思議。
 製作は時間を経ているが、提示された三つの停止原基なるものには、時間がない。不特定であり、衆目の認可には首を傾げざるをえない。むしろ強制的な静かなる威圧(作家の主張)さえ感じるのである。『さぁ、どうだ!』と詰問されているような《問いの形》である。

 停止原基の不変・・・流動・変化こそが自然であり、大いなる原基である。刻々変化せざるを得ない宇宙真理において、この一刹那こそ掲げられるべき『停止原基』であり、三つとは永遠の現在・過去・未来という時間差にすぎない。


 写真は『DUCHAMP』 www.taschen.comより


『国道の子供たち』34。

2021-08-02 06:26:16 | カフカ覚書

「あそこには、眠らないひとたちが住んでいるんだって!」
「どうして眠らないんだろう?」
「それはかれらが疲れないからさ。」
「それじゃ、どうして疲れないんだろう?」
「それはかれらがばかだからさ。」
「ばかは疲れないの?」
「ばかが疲れるはずはないじゃないか!」


☆「眠らないって?」
 「どういう訳で眠らない?」
 「それは彼らに悲しみがないからさ」
 「どうして悲しみがないの?」
 「それはみんな昔話(作り話)だからさ」
 「作り話(伝説)は悲しくないの?」
 「作り話(伝説)に心労があるはずないじゃないか!」