続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)小鳥来る。

2021-08-23 07:14:37 | 飯島晴子

   小鳥来る薄き机をひからせて

 小鳥来るはショウ・チョウ・ライと読んで、妾、寵、頼。
 薄き机をひからせて(薄机光)はハク・キ・コウと読んで、迫、己、孝。
☆妾を寵(特別に可愛がること)に頼る(チチ)
 迫(苦しめる)己(わたくし)の孝(父母に仕えること)。

 小鳥来るはショウ・チョウ・ライと読んで、象、徴、頼。
 薄き机をひからせて(薄机光)はハク・キ・コウと読んで、白、希、講。
☆象徴(具体的な事物、内容を歌うことなく暗示的な手法でそれを表現する手法)を頼りにしていると白(申し上げる)。
 希(珍しい)講である。

 小鳥来るはショウ・チョウ・ライと読んで、衝、調、磊。
 薄き机をひからせて(薄机光)はハク・キ・コウと読んで、迫、記、広。
☆衝(重要なところ)を調べ、磊(小さなことにこだわらない)で迫(近づく)と記(かいたもの)が広がる。


D『泉』

2021-08-23 06:55:43 | 美術ノート

   『泉』

 衝撃的な提示であり、永遠のテーマである。
『泉』と題した小便器、要するに排泄作用を鑑賞者のまえにドン!と置いて見せた画期的かつ普遍の問題提議。

 人間は大小、尊卑の堺なく排泄は日々の習いである。生きる、存在するための必須条件である。
 しかし、この行為は他に見せるべきものではないという暗黙の約束がある。隠蔽すべき行為、小便器=恥部への連想は忌まわしく見る方も見られる方も激しく拒絶する。
 飲食は豪奢、粗食の別があるが、排泄には差異なく、というか、無いであろうと思われる。

 では、他の生物は如何に。見られることを厭わず、隠すという意識もない。
 とすれば、『泉』は、人間の証明である。


『セロ弾きのゴーシュ』12。

2021-08-23 06:23:52 | 宮沢賢治

 繰り返されるゴーシュ(地球の精神)とくゎくこう(死にゆく人)の葛藤場面。
「あなたのはいゝやうだけれどもすこしちがふんです。」
「何だと、おれがきさまに教わってるんではないんだぞ。帰らんか。」

 ゴーシュ(地球の精神)を灰いろの鳥/くゎくこう(死にゆく人)より上に置いておらず、同格、平等の立場である。むしろ、くゎくこうがゴーシュを諭している。
 鳥のほうがほんたうのドレミファにはまってゐるかなといふ気がしてくるゴーシュ。
「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地のないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ」
 灰いろの鳥に過ぎないくゎくこう・・・人間どんな意気地のないやつでも死ぬときは一生懸命のどから血が出るほどの覚悟で臨むんですよ。

 はげしく硝子へ頭をぶつけるくゎくこう…見ると嘴のつけねからすこし血が出ています。死闘まさに死闘である。

 ガラスは二三枚物すごい音して砕け窓わくのまゝ外へ落ちました。そのがらんとなった窓のあとをこゎくこうが矢のやうに外へ飛びだしました。そしてそのままどこまでもまっすぐに飛んで行ってたうとうみえなくなってしまひました。

 臨終・・・現世から冥府への見えない窓、どんな意気地なしでも血が出るほどのエネルギーを要する死出の旅、外国は見えないほどに遠い。