三年まえ、わたしたちは、れっきとした家の娘でしたが、孤児のフリーダは、橋屋で使われている女中にすぎませんでした。フリーダとすれちがっても、見むきもしませんでした。わたしたちは、たしかに高慢だったかもしれませんが、そんなふうに育てられたのです。
☆衝動の年から私たちは隠れた存在でしたが、賢者であるフリーダ(平和)は、仲介(現世と来世の)の暈(ハロー/死の入口)にいて、彼女とすれ違っても見向きもしませんでした。わたしたちは、たしかに高慢だったかもしれませんが、そんな風に生じたのです。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
(鳥かごに入れられた152個の角砂糖型大理石、温度計、イカの甲)
11.4×22×16㎝の鳥かご。たしかに小鳥は中に入ることはできる、けれど、自由に飛ぶことは難しい。不自由の強制であって、愛玩というよりは、単に捕獲を意味するような狭小鳥かごである。
飛ぶという本能の圧制。
一方大理石に至っては、飛ぶことも逃げることもあり得ないものであり、それを収納ではなく鳥かごに収めるのは滑稽である。
人工的に切り刻んだ立方体の大理石は、置かれた状況を不本意に思うこともない無機物質であり、主張する意思もなくただ為されるがままである。
室内に巨岩石を置いたマグリットの作品に似ている。こちらは絵画という偽空間であれば、床が抜け落ちる心配も無用である。
しかし、現物の鳥かごは移動が可能であり、通常抱く鳥かごとは違う重量感に少なからず衝撃があるに違いない。
無理に押し込まれたようなイカの甲、意味のない温度計に必然性は薄く、視覚と体感の相違を含めた落差をもって感覚の不条理を提示せしめている。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』は不条理劇である。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』と自身に問いかけても、そんなことは分からず、《有るかもしれないが、無いかもしれない》のである。
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)
「蝎の火って何だい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だらう。」
「えゝ、蝎は虫よ。だけどいゝ虫だわ。」
☆喝(叱る)過(あやまち)や禍(災難)に勝つ詞(ことば)の化(教え導くこと)の念(思い)がある。
苛(きびしく)怖ろしい懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)、且つ誅(罪を責め咎める)喝(しかること)には中(態度がかたよらない)忠(まごころ)がある。
事実、あなたのおっしゃるとおりで、いまでは、わたしたちとフリーダのあいだには大きな相違があります。それを、一度ははっきりとさせておくのは、悪いことではありませんわ。
☆あなたの言ったことは正しく、今では、わたしたちとフリーダの間では大きな差異があります。先祖の傷痕を主張するのは悪いことではありません。
自然に足が向くラジオ体操、だらしない日常の救世主である。
参加者は大方高齢者ばかりだから、欠席が続くと(どうしたかしら)と心配してしまう。
「実は腰を痛めましてね」という男性。以前に、わたしと出席の印数が同じだと見せてくれたけど、
「もう、新しいカードになったんでしょう」と残念そう。
ある日突然緊急事態に陥ることは想定内、だれも同じ杞憂を抱いて毎日を過ごしている。
わたしより一回り上の婦人、近頃は欠席続き。「網膜剥離で手術をして成功したんですけれど、再び徴候がありまして医者通いです」と漏らしていた。
名前を知らない間柄…「お元気ですか」姿が見えない度に心中問いかけている。
昨日は全員に熱中症対策の飴を頂いたんですよ、あなたにわたしの分をお届けしたいと思いました。
早く良くなって会場でお会いしたいです。
『ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?』
鳥かご、というから鳥かごだと思うけれど、こんなに小さい鳥かごは見たことがない。小さな小鳥、この中である程度自由に飛ぶことのできる小鳥を想起すると、小さい故にこの柵から抜け出てしまうのではないか。
そんな小さい小鳥がこんなにどでかいイカの甲をどう啄むというのか。
それに152個の角砂糖型大理石が無意味に詰まっている光景は唖然とするしかない。小鳥というのは数十グラムの軽さであるのに対し、大理石は重い。
体温計というの動物に使用するものであるけれど、小鳥の体温を測るなど聞いたことがないし、まして大理石などは人が察知すべき温度であって計測の日常化はない。
通常の人が抱いている観念/常識をすべて覆す意外性、というか無為な反逆の凝縮を提示し、作品と名付ける。不遜とも思える行為である。
しかし、それは反骨の精神とは異質のものである。真っ向から《無/非存在》を見えるような形に置換した結果としての従順ではないか。
『ローズ・セラヴィよ』と自身に問いかけている大いなる自問。『なぜくしゃみをしない?』という制御不能な器官の働きは、「自然に逆らうことなかれ」という潜在意識への問いであり、真偽の間を彷徨する否定の上の肯定に揺さぶりをかけている疑問符なのだと思う。
(写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク TASCHENより)
「蝎の火だな。」カンパネルラが又地図と首っ引きして答へました。
☆恰も化(形、性質を変えて別のものになる)と、幽(死後の世界)に致(いたる)と吐く。
自分では、たしかに悪口を言うつもりはなかったし、悪口を言ったともおもっていないのですけれど、あるいは悪口だったかもしれません。わたしたちの置かれている立場と言ったら、それこそ世間のすべての人たちから村八分にされているようなものなんですもの。それで、泣き言を口にしはじめると、自分でも抑えがきかなくなり、見さかいもなくなってしまうのです。
☆自分では確かにそう望まなかったし、そうしようとも思ってもいませんが、しかし、そうだったのかもしれません。わたしたちの状態は世界中と不和になっているようなものです。わたしたちは絶えず訴え続けていますが、どこでもそれを知りません。
とにかくよく成るゴーヤ、三十本、いえ、もう数え切れないほど・・・。少しばかり人に差し上げても残るゴーヤに今は恐々。
ゴーヤチャンプルー、ゴーヤの佃煮、ゴーヤで作る「きゅうりのキューちゃん」、ゴーヤと牛乳と蜂蜜で作るドリンク・・・さすがに。
なんでこんなにゴーヤに固執するかというと、3年ほど前、ゴーヤづけの日々を過ごしたのちの秋に測った体重が3キロも減っていたから。
でも、それからあとは、増えることがあっても減ることはなく、期待薄す。
ダイエット経験のない太ったわたし、モリモリ食べて痩せられるならと勘違いしたのかもしれない。
そんなわけで、まだまだ実が付きそうなゴーヤを恨めしく眺めている。
『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』
花嫁の部分とされる上半分、煙のような形は「銀河」とよばれ、中をくり抜いている四角の部分は「換気弁」とよばれている。
銀河という膨大かつ広大な領域に通念としてのありふれた換気弁が大きく場所を占めるというのはあり得ないし、ここでもすでに空間を破壊する思考作為が働いている。
「 デュシャンはこれは四次元の物体の三次元への投影図と語っている」
四次元は三次元に時間を加えたものであるが、四次元空間を想像することはできるが四次元空間に移動することはできない。できないものを投影するとこうなるという。誰も見たことがないのだから、選択は自由かもしれない。
デュシャンの投影図、それは三次元の解体とも思える。偶然あるいは必然に見えるものの奇妙な接合には合理性がない。
重力の無視はこの作品において著しい。一見脈絡がありそうな仕掛けは部分を追っていくと矛盾(不合理)が見えてくるし、このような形で留まることはない。
「独身者たち」とよばれている下半分の部分、「九つの雄の鋳型は、左から騎兵、憲兵、召使い、デパートの配達人、ドア・マン、僧侶、墓堀り人、駅長、警官と名付けられている」という。
名称は宙に浮き、中に在るべき人も宙に消えている。実態のないそれらしきものという抽象的な配慮はリアルに見えるだけに鑑賞者を惑わして止まない。
あたかも機能するような仕掛けは宙に浮いていて、現実には複製を拒否するものである。チョコレート粉砕機があるというのも、すべてを粉砕に帰すという洒落にさえ見えてくるのである。
思考に思考を重ねた熟慮の果ての《無/非存在》への挑戦は果てしなく続く無為との道づれではなかったか。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)