「あれは何の火だらう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが云ひました。
☆化(形、性質を変えて別のものになる)果(結末)の釈(意味を解き明かす)の講(はなし)である。
化(教え導く)念(思い)を運(めぐらせている。
で、その助けをだれから求めているのでしょう。ほんとうは、だれでもない、フリーダから求めているのではありませんか」
「わたしは、フリーダのことでそんなえげつない悪口をほんとうに言いましたかしら」と、オルガは言った。
☆で、その助けはだれに? しかし、本当はだれでもないフリーダ(平和)からではありませんか。わたしは本当にフリーダ(平和)をそんなに憎みましたかしら」と、オルガは言った。
毎朝、ラジオ体操に出かけている。8時45分はわたしにとっては好都合。8時まではブログ、その後朝食、そして8時40分に玄関を出る。
運動嫌い、家の中で座りっきり(これじゃ良くないよ)の生活。
ふと見かけたラジオ体操のお知らせ(これしかない!)
ラジオ体操の仲間は、すでにお気楽な年代ばかり。子供の昔に帰って少年少女の気分で挨拶を交わしている。
それでもって、めでたく80個の印をクリアー、袋の中身は・・・。
「中には塩飴が入っています」
開けてみたら、ガーゼハンカチ。それでもどこかに飴が、と振ってみたけど・・・。品物が違ったのかも・・・飴もよかったな。お世話になって記念の品まで頂けるなんてホント嬉しいyo ~♪
『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』
デュシャンは考えたと思う。いかに考え(観念)を全否定できるかと。
最大の目標は《空無あるいは空漠に帰すこと》ではなかったか。
言葉や描かれたもの(表現あるいは提示)には、人の想念が重なる。人の眼差しは見出すための器官であり、蓄積されたデータに比較照合を試み、イメージの一致を図る。
その上での感想が、製作者の意図に重なることが順当であるが、デュシャンの場合はそれを阻んでいる。
意味を見出すことが不可能な作為を沈思黙考し、真意を語ることを自身に固く禁じている。(そうとしか思えない)
『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』この題名と作品には共通項がない。【彼女、独身者、裸、花嫁】はすべて、人であり、肉感を持った有機物であるが、作品には、その片鱗さえうかがい見ることはできない。もちろん意図したからであって厳しく一線が引かれている。
鑑賞者は作者の意図に副おうと努力するが、強引に引き離されてしまう。言葉と提示されたイメージが結びつかないからである。
感動はなく、矛盾と混沌、困惑と軋轢、鑑賞者の脳裏は激しく回転する。肯定でも否定ですらもない空無のスパイラルに落ちていく。
解ろうとすると突き放され、離れると離れがたい余韻が残る。すべて解っているはずの世界観という自負が崩壊していく感覚である。
デュシャンの背中・・・前に回ってデュシャンを覗き込むことはタブーかもしれない。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)
ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでした。
赤くはシャク都民で、釈。
酔ったはスイと読んで、推。
火はカと読んで、化。
燃えてはネンと読んで、念。
☆釈(意味を解き明かす)を推しはかり、化(教え導く)念(思い)である。
しかし、いろいろな点から考えてみると、無邪気なフリーダのほうが高慢なアマーリアよりも多くのことをなしとげたとおもえるのですがね。というのは、ぼくの印象では、あんたが助けを求めているのは、アマーリアのためだからです。
☆しかし、罪のないフリーダ(平和)のほうが、尊大なアマーリアより多くを成し遂げたように見える。わたしには先祖の苦境を助けるためにアマーリア(月)を求めたように思います。
暦の上ではもう秋・・・。
人生の上でも、すでに秋。
街を歩いていてふと自分の姿を目にすることがある。ショーウインドウに映る自分、丸い背中、皺と白髪の鈍間然としたお婆さん、(これがわたしなの?)
長い月日の果て・・・いろんな思いがこの身体の中に凝縮している。
全て洗い流し、きれいさっぱり空にして、天を仰いで大笑いしたいな。
(もう、いいよ)って、わたしのご先祖様たちが見えない糸を引いているかもしれない。
何だったんだろうな・・・。
でも、秋の香り、愉しまなくては!
《まだまだ!!》まだ秋なんだもの。
『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』
おかしいでしょう、この題名。
言語というのは相手に通じることを前提に形作られている。言葉は時代を経た不壊の完成品でもあるが、それを否定する言語を熟考した結果の題名ではないかと察する。
「彼女の独身者たち」ということ自体が微妙にずれている。「彼女と独身者たち」もしくは「独身者たちの彼女」なら分かるが、彼女は独身者たちを所有するだろうか。
「独身者たちによって裸にされた花嫁」、「彼(許婚)によって裸にされた花嫁」なら分かるが、複数の者が花嫁を裸にするなど事件である。(しかし、例外的にあり得るかもしれない)という余地が言葉のミソでもある。
しかも独身者たちは、男に限らず女の独身者も当然いるのに、なぜか男性であると思い込む、思いこませる流れを方向付けている。
全体、この題名は曖昧不明であるが、断言している点で納得しがたいが納得せざるを得ないような奇妙な迫力に押し切られてしまう。
「、さえも」って何? 止む無く、仕方なくという嘆息も滑稽というかユーモアを感じてしまう。
通念の否定、言葉と物、言葉とイメージ・・・蓄積され慣習化した観念の否定、破壊である。
存在を破壊(崩壊)によって否定(無)し、存在の意味を問いかけている。
(写真は『デュシャン』新潮美術文庫より)
まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な火が燃され、その黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでしt。
☆講(はなし)の要(かなめ)也。
現れる他意の釈は、化(形、性質を変えて別のものになる)念(考え)であると告げる。
講(はなし)の吉(よいこと)は教(神仏のおしえ)を展(ひろげる)照(あまねく光が当たる=平等)にある。
すでになんらかの力をもった男としてのぼくに期待をかけているのでしょう。ところがこれだけの力をぼくがもつようになったのは、フリーダのおかげなのです。フリーダは、なかなか謙虚な女だから、あんたがそういうことを問いただそうとしても、きっとどこ吹く風というような顔をしているでしょう。
☆すでに能力、手段を持った人としてのわたしに期待しているのでしょう。この手段はフリーダのおかげなのです。フリーダは信ずべき人で、それを教え、小舟への問いも、決して軽くは判断しないでしょう。