続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)どうにでも。

2020-11-26 07:02:13 | 飯島晴子

   どうにでも歪む浴衣を父に着せる

 どこに不具合があったのか知る由もないが、病巣は痛みを伴って身体を微妙に硬化させる。病床にある父への気遣い、涙を隠した配慮、指先までも優しさに満ちた看護の様子が伺われる。

 歪む浴衣はワイ・ヨク・イと読んで、猥、抑、以。
 父に着せるはフ・ジャクと読んで、腐、若。
☆猥(乱れること)を抑え、畏(かしこまること)に腐(苦心する)若(若者)である。

 歪む浴衣はワイ・ヨク・イと読んで、賄、欲、意。
 父に着せるはフ・ジャクと読んで、普、弱。
☆賄(不正な贈り物)を欲(ほしがる)意(気持ち)は、普く弱い!


R.M『不思議の国のアリス』

2020-11-26 06:21:35 | 美術ノート

   『不思議の国のアリス』

 この画がどうして『不思議の国のアリス』なのか、アリスは不在である。
 擬人化された樹、眼があり鼻があり…当然その下には大きく開く口があるに違いない。確かにアリスは樹の根元の穴から不思議の国へと遊離している。
 現実から非現実へと樹を媒体に通り抜けている。

 逆もあるだろうか。
 つまり、非現実から誘いこまれる現実である。
 ここに描かれた景にリアルはなく、雲も樹も他のものに置換されている。洋ナシに変貌した雲は擬人化された樹を誘い込んでいる。大地に根を下ろした樹は、大地と深く結びついているのだから空中へは浮遊できない。
 難題を吹きかける意地の悪い笑いの洋ナシ(雲)は元来、樹の産物であれば、落下を余儀なくされるだけであるから、ある意味、逆襲の構図である。

『不思議の国のアリス』、当然あるべき姿の変容、質的転換、擬人化の妙、すべてが既成の概念から外れている。
 異世界(不条理)と言えば総てが肯定される空想界。
 マグリットは、現実と非現実との境界線を曖昧に行き来し、もう一つの世界を描いているが、その答えが『不思議の国のアリス』にあると感じている。ゆえにアリス不在の『不思議の国のアリス』を提示、差し出しているのだと思う。現実と非現実の不透明な行き来の中に主張を隠している。


 写真は『マグリット展』図録より


『城』3544。

2020-11-26 06:09:03 | カフカ覚書

もしわたしが二階の廊下の壁のくぼみに隠れて両手を胸にに当てているところをフリーダが見たらさぞかしおもしろがったことでしょう。クラムが降りてこなかったのは、フリーダが降りてこさせないようにしていたからなのですわ。


☆ペーピが通路の上の壁のくぼみで両の手を胸に当てて見ている所を、彼女が見たらさぞ素晴らしい談話になったことでしょう。クラムが下へ降りてこなかったのはフリーダが許さなかったからです。


『飯島晴子』(私的解釈)六月の。

2020-11-25 06:53:39 | 飯島晴子

   六月の父よ生木の梯子持つ

 六月、梅雨の季節の湿度、さらに生木の比重・・・重い梯子を持つことの出来たワイルドな(頑強)父であったのに。

 六月の父はロク・ガツ・フと読んで、碌、合、父。
 生木はショウ・ボクと読んで、笑、朴。
 梯子持つはテイ・シ・ジと読んで、態、私、似。
☆碌(役に立たないさま)を合わせると、父を笑ってしまう。
 朴(ありのまま)の態(ありさま)は、私に似ているから。

 六月の父はロク・ガツ・フと読んで、録、合、二。
 生木はショウ・モクと読んで、章、黙。
 梯子持つはテイ・シ・ジと読んで、底、示、字。
☆録(文字に書き記し)合わせると、二つの章がある。
 黙っている底(物事の下の部分)には示(教える)字がある。
 


R.M『稲妻』

2020-11-25 06:24:51 | 美術ノート

   『稲妻』

 稲妻とは、空中電気の放電(電光)であり、それが雲に反映したものである。
 作品においては花瓶に生けられた花の集合の部分に変化がみられる。なぜ、花なのか。稲妻が走る場合、劇的変化の彩色を見るが、この画では眩いばかりの光というより無彩色のグレーに変化している。

 周囲(外気)の眩い光によって室内にある花が無彩色なグレーの色面、つまり、影…有るが無いものに変化している。
 稲妻の光は視界を劇的に明るく照らし出すが、そのことによって見ている対象を見えなくする作用を生じさせる。

 存在するものは、有るがまま存在しているだけである。しかし稲妻という現象は、物理的にも心理的にも、見ている対象を激変させてしまう。光の魔術は自然界におけるトリックであり真理である。


 写真は『マグリット展』図録より


『城』3543。

2020-11-25 06:15:22 | カフカ覚書

だから、まったく意味のないことなのです。でも、クラムが来てくれなかったら、ほとんどあらゆることが無意味になってしまうのです。だのに、クラムは来ませんでした。今日では、わたしは、彼がなぜ降りてこなかったかを知っています。


☆無意味なのです。でも、彼が来なかったら、ほとんどあらゆることが無意味になってしまうのです。そして彼は来ませんでした。今日ではなぜ彼が来なかったかをわたしは知っています。


『飯島晴子』(私的解釈)ちゝはゝの。

2020-11-24 07:29:22 | 飯島晴子

   ちゝはゝの指をわづらふほたるぶくろ

 庭の手入れをしていると、植えた覚えのないホタルブクロの花が咲いている。清しく可憐なホタルブクロを野草として取り除くべきか否、・・・父母の指を戸惑わせているホタルブクロである。

 ちゝはゝ(父母)はフ・ボと読んで、腑、簿。
 指をわづらふ(指煩)はシ・ハンと読んで、止、判。
 ほたるぶくろ(蛍袋)はケイ・タイと読んで、景、諦。
☆腑(心の中)を簿(ノート)に止(とどめている)。
 判(区別すると)、景(ありさま)が諦(あきらかになる)。

 ちゝはゝ(父母)はフ・ボと読んで、譜、墓。
 指をわづらふ(指煩)はシ・ボンと読んで、仕、凡。
 ほたるぶくろ(蛍袋)はケイ・タイと読んで、系、代。
☆譜(代々続く)墓に仕えるのは、凡(おおむね)系(つながり/係累)の代(世代)である。


R.M『エルシノア』

2020-11-24 06:48:06 | 美術ノート

   『エルシノア』

 平原に唐突に緑の森が現れる、巨大であり深いが一枚の薄い平面状である。焦点は地平線にも樹々にも樹の上方にも…つまり全体を真正面から見ている。しかも木々の上は建屋の形がくっきり刻まれ街の態である。

 物理的根拠をすべて外し得たという光景は、何を意味しているのだろう。概念の通用しない世界の形成。徹底的に存在の条理を否定し、さもありなんという共通項を残している。
 平原に然り、林立する樹木、背景の薄雲のかかった空・・・しかしどこかおかしい、総てに奥行きがあると見せかけてベタ(平面状)なのである。世界の在り様の不条理をこの画に暗示している。

 絶対に!こうではないという光景を意図的に描き出している。
 世界の不在(空虚)を、硬質の薄っぺらい板状の盾で表示する企てである。
 一見すると緑豊か。しかし、緑(濃淡)でしかなく不気味である。木々の在り様も総てが直立は不自然だし、葉の密集に枝の欠如はあり得ない。

 あり得ない光景を現出させた意図はなんだろう。
 この画の中に鑑賞者は入りこめない、入口も出口もない異世界。絵(世界)の前で立ち往生し、禁断の門の構築を再認識せざるを得ない。とにかく誰も入れない、入れない、禁断の境界である。マグリットの強固な意志の表明である。

 写真は『マグリット展』図録より


『城』3542。

2020-11-24 06:35:44 | カフカ覚書

これは、まったく無意味なことでした。クラムが降りてこようとおもっているのなら、勝手に降りてくることでしょう。しかし、降りてくる意志がなければ、わたしが壁のくぼみのなかで息ぐるしいほど胸をはずませてみたところで、さそいだすわけにはいかないでしょう。


☆これは全く無意味なことでした。クラムが来ようとしているのなら来るでしょうし、その意思がなければ、壁のくぼみで動悸が激しくなるほど息をひそめていても、おびき出すことはできません。


『飯島晴子』(私的解釈)川晴れの。

2020-11-23 06:45:00 | 飯島晴子

   川晴れの薄羽子板よ父に持たす

 川面に光が反射し、辺りは輝くばかりの光空間に転化している。その河原に幼い作者が戸惑う父に無理やり薄羽子板を持たせて遊んだという思い出。

 川晴れのはセン・ショウと読んで、旋、照。
 薄羽子板はハク・ウ・シ・ハンと読んで、博、有、至、氾。
 父に持たすはフ・ジと読んで、不二。
☆旋(ぐるぐる回る)照(ひかり/太陽)は博(大きく広がる)有(存在)であり、至(このうえなく)氾(ひろがり溢れる)不二(二つとしてない優れもの)である。

 川晴れのはセン・セイと読んで、専、省。
 薄羽子板はハク・ウ・シ・ハンと読んで、迫、迂、詩、判。
 父に持たすはフ・ジと読んで、腑、二。
☆専(ひたすら)省(注意して)迫る。
 迂(遠回りして)詞(言葉)を判(見定めると)腑(心の中)の二つがある。