続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)藪青し。

2021-11-26 07:36:28 | 飯島晴子

   藪青し匂袋の振舞はれ

 藪青しはソウ・ショウと読んで、総、称。
 匂袋はニオ・タイと読んで、鳰、態。
 振舞はれはシン・ブと読んで、浸、舞。
☆総称を鳰(にお)という。
 態(ありさま)は浸(水にひたり)舞う。

 藪青しはソウ・ショウと読んで、双、象。
 匂袋はニオ・タイと読んで、仁王、対。
 振舞はれはシン・ブと読んで、震、武。
☆双(二つ)の象(姿)の仁王さま。
 対(二つで一組になったもの)で、震(ふるえるほど)武(強く勇ましい)。

 藪青しはソウ・ショウと読んで、草、焼。
 匂袋はニオ・タイと読んで、匂、耐。
 振舞はれはシン・ブと読んで、森、蕪。
☆草を焼く匂いに耐える。
 森は蕪(雑草が生い茂っている)。


M『本来の意味』

2021-11-26 07:04:53 | 美術ノート

   『本来の意味』

 黒枠の中の黒い線による✖、四つに仕切っただけか。
 少し白濁のあるブルー(天然の空)、暗緑色、corps de femme の文字。これらに関連はあるだろうか。むしろ無関係なものを四つの区画に当てはめたという印象である。この四面から答えを出すのは難しい、答えがないからである。

 鑑賞者は、認識するこれら四つの画面からそれぞれの観念的な想念を重ねるが建設的な合意を得ることは出来ない。あえて不可能な組み合わせを並置する、しかも✖という区画に於いて。否定、静かなる笑いは作家と鑑賞者を結ぶ。

 意味とは内容や意図の無いものにも相当する。伝達し得ないもの、概念、意義の共通性を著しく欠いたものも《意味》の範疇に入るのだということを改めて知らされる。本来、意味とはゼロもしくはマイナスの領域を含まないのではないかという通念を打ち消し、意味には(意味がない)から(意味がある)までの全領域に通用することを暗に仄めかし、《意味》とは意味の無いものを関連づけることから始まるという『本来の意味』を提示している。


『水仙月の四日』55。

2021-11-26 06:38:57 | 宮沢賢治

 まもなく東のそらが黄ばらのやうに光り、琥珀いろにかゞやき、黄金に燃えだしました。丘も野原もあたらしい雪でいつぱいです。
 雪狼どもはつかれてぐつたり座つてゐます。雪童子も雪に座つてわらひました。その頬は林檎のやう、その息は百合のやうにかをりました。

(三人の雪童子は、雪狼をつれて、西の方へ帰つていきました)上記の場所は西の方なのか・・・それとも現世の景色か。

(雪童子らは、めいめい自分の狼をつれて、はじめてお互挨拶しました)という関係。「こんどはいつ会ふだらう。」といい、「早くいつしよに北へ帰りたいね。」という。こここに登場する雪童子たちは《はじめて》といい《いつしょに》という。つまり、一緒にやって来たわけではないらしい。

 東のそらが黄ばらのやうに光り、琥珀いろにかゞやき、黄金に燃えだしました。丘も野原もあたらしい雪でいつぱいです。・・・ここは(来世)だろうか。あたらしい雪というのは来世に来た新しい幽鬼(死人)なのか、再び現世に降った雪なのか…二重の風景は深い景色である。(もちろん普通に読めば、すべてが現実の風景であるけれど)


『飯島晴子』(私的解釈)たのまれて。

2021-11-25 07:37:34 | 飯島晴子

   たのまれて鷺山の日をさげすみぬ

 たのまれて鷺山の(頼鷺山)はライ・ロ・センと読んで、雷、路、閃。
 日をさげすみぬ(日蔑)はカ・ベツと読んで、火、別。
☆雷の路(みちすじ)は閃(きらりと光る)。
 火とは別(違うもの)である。

 たのまれて鷺山の(頼鷺山)はライ・ロ・サンと読んで、磊、漏、惨。
 日をさげすみぬ(日蔑)はジツ・ベツと読んで、実、別。
☆磊(小さなことにはこだわらない)が漏(秘密が世間に知られること)は惨(みじめで傷ましい)。
(知られないように)実(内容)を別にしている。

 たのまれて鷺山(頼鷺山)はライ・ロ・センと読んで、頼、蕗、選。
 日をさげすみぬ(日蔑)はジツ・ベツと読んで、実、別。
☆頼んだ蕗を選ぶ。
 実(内容のあるもの)を別(分けて区分する)。


M『ことばの用法』

2021-11-25 07:14:16 | 美術ノート

   『ことばの用法』

 煉瓦の壁と濃い暗色グリーンの壁が半分に仕切られて繋がっている背景である。
 主体は薄グレーの平面、不明確な形(人を連想させる)の中に、canon corps de femme arbre の文字がそれぞれ任意の位置に書かれている。大砲、女の身体、木。

 即、意味を思い浮かべる。しかし、意味は無意味にただそこに書かれているだけであることを知る。関連、誘いだすイメージはない。

『ことばの用法』言葉は伝達・媒介である。目的があり、伝える力がある。しかし、置き去りにされ、投げ出された言葉の無力もまた真実であり、人智の及ぶ範囲にはない。
 共通言語をもたない他者にとっては単なる記号、羅列にすぎず、その役目からは遠い。言葉は約束であるが、排他的でもある。言葉への全面的な心服は一部に留まらざるを得ない。言葉の用法は開いているが、閉じられたものでもある。

 写真は『マグリット』展・図録より


『水仙月の四日』54。

2021-11-25 06:28:52 | 宮沢賢治

「それはね、電気菓子とおなじだよ。そら、ぐるぐるまはつてゐるだらう。ザラメがみんな、ふわふわのお菓子になるねえ、だから火がよく燃えればいゝんだよ。
「ああ。」
「ぢや、さよなら。」
「さよなら。」
三人の雪童子は、九疋の雪狼をつれて、西の方へ帰つて行きました。

 菓子とおなじ・・・仮死。
 火がよく燃える・・・化(教え導く・形、性質を変えて別のものになる)の念。
 カシオペーアの三つとも。とも。・・・仮死をペーア(peer/じっと見る)。三は三(数)なのか、Sun(太陽)か、星は法師とも。

 三人の雪童子は、九疋の雪狼をつれて・・・最初に現れた時は二疋の雪狼、うしろから雪童子(三人とは書いてない)→狼どもも→(三人の雪童子は九疋の雪狼をつれた)になっている。数は複数入り乱れてということか、数に意味を被せているのか。
 雪婆んごが(月)の化身だとすると、三人の雪童子は(太陽)の化身かもしれない。九疋の雪狼は(救済の大神)。
 現世と来世(冥府)の領域(死境)の攻防。等しく死(ひゆう・非有)へ運ぶものと、赤い(シャクと読んで、釈/意味を解き明かす)舌(言葉)を吐く教え導くもの。
 三人の雪童子は『水仙月の四日』に現れるあの世への迎合、三尊(阿弥陀仏・観音菩薩・勢至観音)を暗示しているかもしれない。


『飯島晴子』(私的解釈)栗いろに。

2021-11-24 07:07:14 | 飯島晴子

   栗いろにこころをあはす上人たち

 栗いろ(栗色)はリツ・ショクと読んで、立、食。
 こころをあはす(心合)はシンゴウと読んで、心、合。
 上人たち(上人達)はジョウ・ジン・タツと読んで、常、尽、立つ。
☆立食は心を合(一つにする)。
 常に尽(ことごとく)立つ。

 栗いろ(栗色)はリツ・ショクと読んで、律、嘱。
 こころをあはす(心合)はシン・ゴウと読んで、審、強。
 上人たち(上人達)はショウ・ニン・タツと読んで、証、人、立つ。
☆立(おきて)に嘱(ゆだね)審(正しいかどうかを明らかにする)。
 強(力のある)証人として立つ。

 栗いろ(栗色)はリツ・シキと読んで、慄、式。
 こころをあはす(心合)はシン・ゴウと読んで、普、業。
 上人たち(上人達)はショウ・ニン・タチと読んで、章、任、質。
☆慄(恐れ戦く)式(やり方)で普(つきすすむ)。
 業(どうにもならない心の動き)の章(文)には、任(ゆだねる)質(ものの内容)がある。


M『新聞を読む男』

2021-11-24 06:40:58 | 美術ノート

   『新聞を読む男』

 新聞を読む男が主題である。しかし、四分割された同じ部屋の同じ設えの中に男がいるのは四分の一である左上の画面の中だけである。

 四分の一ほどの滞在、浮いて希薄な存在の男。関心は新聞(家庭外の社会の情報)に向けられている。男の着衣もハウスウエアーではなくネクタイ着用の対世間に向けた仕事着である。

 男の欠けた部屋の静謐、用意された椅子に相手の姿はない。男は四分の一ほどの姿を見せているが、対面の椅子に男の伴侶、妻の姿は見えない。熟年の男にアットホームな安らぎはなく、子供たちの影も皆無である。

 男に孤独の影はなく、ひたすら新聞(社会・仕事)を読んでいる仕事人間であり、家庭にあっても社会経済の動向に身を委ねている。マグリットの父である可能性が高いが、黙して一人の男を描いている。

 写真は『マグリット』展・図録より


『水仙月の四日』53。

2021-11-24 06:14:37 | 宮沢賢治

「まあいゝだらう。ぼくね、どうしてもわからない。あいつはカシオペーアの三つ星だらう。みんな青い火なんだらう。それなのに、どうして火がよく燃えれば、雪をよこすんだらう。」

 カシオペアは五つ星の認識が一般的、あえて三つ星といい、青い火だと言っている。カシオペアは北極星を指す目印、水車ではあるが、単に冬の星ということか。
 三つ星は、三人の法師。
 青い火は、青い(ショウと読んで、照/あまねく光が当たる=平等)火(火はカと読んで、化/形、性質を変えて別のものになる)。
 別のものになる、(生~死)。よく燃えれば→よく念じれば雪(折/死、幽鬼)になる・・・生の転換点、死への移行。
 生死の混在、死の境界の領域、ひゆう、ひゆう→非有(存在を否定する/本当の死へと導く)の凄まじい物語である。


A家の場合。

2021-11-23 06:47:18 | 日常

 ここに転居してから四十年ほどになる。子供たちでにぎやかだった界隈も今は独立し市外に出たりして静かな、静かすぎる状況になっている。

 ある日、公営墓地を散歩していると、近所のA君がポツンと煙草を吸いながら座っていた。何気なく話しかけると「おばさんちの夕食は何?」と聞き、「カレーライス?」と重ねた。
 そして、自分は長いことカレーライスを食べてないという。
「お母さんは作らないの?」
「うちじゃ、誰も料理はしないんだ」(えっ)…母親は何年か前に脳梗塞で倒れ、元気にはしているけど何もしないらしい。

 かつて母親である奥さんは「今日はひな祭りだから蛤を買わなきゃ」などと言っていたのに…。

 A君は「もう57才なんだ、早く年金にならないかなぁ」などと淋しいことを言う。彼もまた昨年救急車で運ばれて以来病院通いをしている由。所帯を持った弟のB君が訪ねて来て掃除や買い物をしている。
 ある日などは障子を張り替えているので「手伝おうか」というと、「いえ、いえ」と言いながら、「障子を張り替えたら家の中が少しでも明るくなると思って」などと健気なコメント。

 みんな大人になったけど、それぞれいろんな事情を抱えている。もう子供じゃないんだと、つくづく。

※偶然、A君の出したゴミをすぐ後だったので見たことがある。袋の中は缶詰の空き缶が・・・そういえば、「ご飯だけは炊けるんです」と言っていたことを思い出した。隣の主婦が「宅食を頼めばいいのに」と言っていたことなど・・・本当に切ない。