思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ベートーベンの初期の三曲―穢れなき純粋な力に溢れた名曲

2005-10-09 | 趣味


「ベートーベンの三曲」に続いて、私のお気に入り=ベートーベン「初期の三曲」を選んでみました。これを聴いて幸福にならない人はいない!と思う3枚のCDをご紹介します(しかもすべて1000円~1300円で入手できます)。


まず、正真正銘の作品1、「ピアノ三重奏曲の1番(作品1の1)と2番(作品1の2)」です。演奏は、スーク・トリオで、83年・84年の録音、DENONから廉価版で出ています。清潔感と共に優しさ、適度な甘さのある心に染み入る名演奏です。

次は、「バイオリンソナタの1~3番(作品12の1~3)」です。バイオリンがシェリング、ピアノがヘブラーです。共感力、技巧の冴え、均整(バランス)、すべて揃った名演。純粋で暖かい。録音は78年でフィリップスから廉価版で出ています。

最後は、「ピアノ協奏曲1番(作品15)」、真に偉大な自由人―グルダのピアノです。バックはホルストシュタイン指揮のウィーンフィル。録音は70年、LONDON・キングレコードから出ています。1番に限らずベートーベンの5曲のピアノ協奏曲は、未だにこの演奏の右に出るものなし、と太鼓判を押したいと思います。実に豊かな音楽です。愉悦に溢れるベートーベンをぜひどうぞ。

10月9日 武田康弘



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腑に落ちる知=「民知」の実践紹介、阿部さん「娘の変化」、綿貫さん「水質の問題」

2005-10-08 | 恋知(哲学)


思想までも情報知になっている「愚かな」現実を少しづつ変えていきたいと思います。 「客観学」と「思想」=主観性を深めることで普遍的な了解を生み出すこと、とはまったく異なります。
皆さんも、有意義で、腑に落ち、「得」をする思考の実践をぜひご一緒に!!

以下は、民知の思考の実際例です。

知のありようと水質の問題 綿貫信一

私は小学生の頃釣りが好きで、毎週のように近所の手賀沼や利根川へ釣りに行っていました。当時は専ら練り餌を使っていたので、餌を作るためにその場所の水を汲んで、自分の手で餌を練る必要があります。

当時の手賀沼の水は非常に汚く、水に手を付ける時にちょっと気持ちが悪かった記憶があります。この感覚は、ニュースなどで報道されていた「水質ワーストワンの手賀沼」といった情報が先入観としてあったことも影響していたのかも知れません。しかし、水を前にして、「手を入れるのイヤだな」と感じることそれ自体は、実際の手賀沼の水から受けるものです。ワーストワンとか水質云々といった話は、その後から、「そういえば手賀沼は日本一汚いんだったな」等と思い出され、自分が感じた感覚をより強めることにしかなりません。

CODやBODの値が○○だから水が汚れているのではありません。私たちが実際に見て、手に触れて、臭いを嗅いで感じたこと-例えば「この沼だったら泳いでみたい」「この川の水には触りたくもない」-といったことは、水質分析結果の数字よりも前にある主観的事実です。

水質分析の手法は、こうした人間が感じる感覚を何とか数値によって表現してみようという試みです。数値化することによって、他の人にも伝達しやすくなります。

水質浄化にしても、ある水質項目を目標値に掲げて、「CODを○○以下にしよう」ということは、目標としては分かりやすくなります。しかし、CODの値が目標値に達したことをもって、目的が達成したと考えること、つまりCOD値そのものを目的にすることはナンセンスです。

泳げるような沼にしたいのか、水辺で触れ合える程度でよいのか、夏場に臭いがしなければよいのか、あるいは多用な生物相を復活させるのか-こうしたことこそが本来の目的であるはずです。CODの値は目標に達したがちょっとこれでは泳ぐ気になれないし魚や鳥も帰ってこない-これでは何のための水質浄化なのか? 全く意味がありません。
まずどのような手賀沼にするのか?という目的を持つことが必要なのですが、この目的=主観(私たちがこうありたいと考える手賀沼の姿)自体は、水質分析の値や化学などと行った科学的な知=客観学からは絶対に導くことは出来ません。客観学はあくまでも目的が決まった後に、それでは具体的にどのように実現していくか、という段階で役に立つものです。

まず何よりも私の主観が感じ・思うことを段々と深め・広げて普遍化していくこと=「主観性の学」が求められるのであり、専門知としての客観学は、それをサポートする「知」に過ぎない、そう考えるべきなのです。現代社会の悲喜劇は、それが逆転しているところにあるのだと思います。タケセンの言う知の変革=民知の実践が急務です。

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娘に変化が現れた 阿部憲一

今日は娘の小学校の個人面談に行ってきました。

その前に最近の娘に現れた変化についてお話しします。

いつも「一人で学校に行きたくないー」と言って泣く娘に私がついて教室までいっていました。ところが、ここ数日は、友達と一緒に学校へ行けるようになったのです。(カミさんが校門まではついて行きましたが。)
本人も「今日は一人で学校に行けたんだよー」と自信のある口ぶりです。

個人面談に話を戻しますと、

先生の話では、「あまり進まなかった給食を今日はみんなより早くおかわりした。」「最近、自分から進んで手を上げる回数がみるみる増えた。」「まわりの子と自分から進んで関係をもつようになった。」ということです。
どうやらいろんなことに自信がついてきたようなんです。

入学当初は「なんで学校に行かなくちゃいけないのー?」と泣いて質問する娘にうまく答えることができませんでした。(今もできないかも)

そのときは、「法律で決まってるんだけど(笑止)それは人間が作ったものだから理由があるんだよね。うーん、どんな理由かっていうと・・・。学校へ行っていろんな友達ができて話をすると楽しいし、計算できると花やさんの仕事もできるようになるし、勉強できるようになると楽しいから、お父さんお母さんは、自分の子供を学校へいかせたり勉強をおしえてあげて下さいってっことなんだと思うよ。」とか、
「『つまんない』ばっかりいっててもつまんないから、楽しいことを学校で見つけておいでよ、作っておいでよ。」とか、
「行かなくてもいいんだけど、そうすると家庭教師をたのんだり、お父さんが仕事を休んで勉強を教えたりするととってもお金がかかるんだよ。そんな沢山お金はないんだ。学校に行くとお父さんがお金がかからずに済むんだよ。」とか、言ってました。

それで納得してくれるとは思わないけど、それしか言えませんでした。

学校に行くのがとっても不安。その気持ちはよく判りました。
だから、娘と私の譲り合えるところで、朝教室まで私が連れて行くことを続けていたのです。

面談に話を戻します。

「彼女は今、いろいろなことが噛み合ってきています。彼女の気持ちに沿って、このままのペースで行きましょう。」と先生。
「気持ちの波もありますから、また私と学校に来るようになっても、そのときはよろしくお願いします。」と私。

娘とのつきあい方はこれしかないな、と確信しました。

彼女の気持ちに沿って私が考え、行動する。このことは私の必然であり、またそれ以外の方法はありえないと思います。そして、それは私の歓びであるのです。
頭ごなしに「つべこべいわず学校は行くもんだ!」などというような、最初に「ちゃんと」学校へ行くという体裁を整えてから、中身を埋めて行くようなやり方は嫌なのです。

ともかく、彼女は目に見えるように変わってきています。
こんなに嬉しいことはありません。

自分の子供は出来る限り自分で見たい。そう思って、前から仕事は地元でやりたいとか、ある程度時間が自由になる仕事がいいとか、考えていました。
他の人からみると「ひま」なお父さんに見えるかもしれませんね。(笑)

そして、このことを大げさに表現すると、

彼女は「実存」を実感している。

と言えるのだと思います。

これを書いているときに、すごくすっきりした気持ちになるブログを見ました。
「生きる」ということの土台になる話です。

タケセンのブログより抜粋

人間が存在していることの理由を問うことはできません。
「私は何のために存在しているのか?」と問うことは、背理なのです。何のために?誰のために?などと言う目的はありません。私は、ただ人間として存在している=実存しているだけです。
 わたしを取り巻く一切の世界を意味づけ、価値づけ、秩序づけ、目的を与えているのは、人間の意識=私です。私の意識こそが出発点であり、究極の動因なのであり、それが何のため?と問うことは、悪しき形而上学(けいじじょうがく)=宗教にしかなりません。
 この世のすべてに意味を与えているのは、私の幻想価値=イデアであり、人間は、自分を肯定できるような理念やロマンを能産し続ける存在=実存なのです。能産(のうさん)し続けることが出来なくなったとき、人間は、人間としては死ぬのです。
 結論を言いましょう。人間は、自分の幻想価値(理念的ロマン的世界)を他者という現実に晒(さら)し、試すことで、己の幻想価値をくりかえし吟味(ぎんみ)し、豊饒化(ほうじょうか)させてゆく存在であり、その営みが<人間の生きる意味>になるのです。
(武田康弘) 



念のため、勘違いしないように言っておくと、<学校へ行く意味>=<人間の生きる意味>ではありません。次元が違う話ですので。

私が言いたいのは、彼女が感じ始めたと思われる「実存」(=自分からの問いが出発点)という「生きる意味を自分で作り上げて行く」ことを続けて行けるように私は彼女を見守りたいということです。

子供はみな、抑圧さえしなければ、自然とそういう生き方をするものだという気もしますけれど・・・。

学校が、自分の意見を人に表明し、受け入れられ、他の人の意見に耳を傾け、議論する・・・。そんな「場」であれば、タケセン風に言えば「エロース豊かな」生き方ができるのでしょう。

親としては、ぜひそうなるようにしたいです。



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「民知」の核心点、キーワード-質問へのお答え

2005-10-05 | 恋知(哲学)
武田様

いつもありがとうございます。
Aさんのメールや 綿貫さん と 阿部さんのお書きになったものを読ませて
いただきました。
難しい「哲学論」ではなく、生活に根ざしたよりよく生きるための哲学である
「民知」を実感しました。
「民知」(PCでいきなり変換できるように「恋知」とともに登録しなくちゃ)の集合によってやがては社会をよき方向に動かすことが出来るのですよね。

漠然とした稚拙な質問ですが‥
私は過去に向き合う調査を続けているので、どうしても近現代に関する
歴史認識のあり方が気になってしまいます。日本だけでなく、アジアの国々
も含めてですが、「民知」の立場から「偏狭なナショナリズム」にどう向き合えばいいのでしょう?
金さんがお考えの「日本及びアジアの国々に広めようという活動」に大きな
影響を与えることではないかと思います。
お暇な時にゆっくり教えて下さい。

楊原泰子。

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楊原様。メールありがとうございます。

楊原さんのいう通り、「民知」の集合によって、
日本人の考え方=価値観そのものを動かしていくことが、おおもとから社会=人間を変えることになるわけです。自分の足元が見えない「愚かなインテリ」ばかりでは終わってしまいますから。

「近現代に関する歴史認識のあり方が気になってしまいます。・・『民知』の立場から『偏狭なナショナリズム』にどう向き合えばいいのでしょう?」(楊原)

この問題の核心は、明治半ばで固まった政府の「近代天皇制」=「天皇教」による教育政策(洗脳)にありますので、最大の責任者は、この理念の下に具体の政策を進めたエリート官僚と政治家です。したがって、私は、天皇教(その総本山が靖国神社)の問題をクリアーしない限り「戦後」も終わらない、と思っています。天皇教や東大病という序列宗教と、個々人から立ち昇るエロースを産み出す「民知」(恋知)とは対極にある思想です。

「偏狭なナショナリズム」を越えるために、従来の「左翼」的思想は無力です。「ナショナリズム」に対して「国際主義」を掲げるのは「弱い」思想でしかありません。
「知」のありようそのものを変えることが必要です。それが「民知」です。何かの理論や権威に頼ろうとする脆弱な精神、しばしば「西洋かぶれ」と称されるような舶来礼賛の頭では何事も成しえません。日々の具体的経験から立ち上げる思索が必要です。自分の足元を掘り進めていくと必ず裸の私=実存に出会います。そこからの出発が原理です。
右左のイデオロギーに頼る浮ついた精神や言語・概念主義の虚妄を超えて、五感全体で深く感じ知る能力を開発し、そこから自分の頭でよく思索・吟味することが何より大切、そう考えています。

そうした時、人間は、「・・主義」の危うさやいやらしさを超えて、人間としての深い地点での共同性を獲得するのではないでしょうか。落ち着きがなく、あちこち飛び回るような心と頭ではなく、自分の足元をしっかり見据え・掘る営み=「民知」の実践がおおきな「国際性」をつくるのだと思います。他者に合わせるのではなく、深い自己納得=主観性を深め豊かにすることがポイントです。「実存としての生」という場所では日本人も外国人もありませんから。

キーワードは、「民知―恋知」・「主観性の学」・「腑に落ちる知」・「心身全体での会得」、「実存として生きる」・「エロースの生」・「悦び」・「魅力」、などでしょう。

武田康弘 10月5日

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武田様

お返事拝見し、深く納得しました。
世界中の人々と「人間としての深い地点での共同性を獲得」出来たら
どんなにか素晴らしいでしょう!
ありがとうございました。

楊原





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宿題の3曲ーベートーベン

2005-10-03 | 趣味

パパゲーノという謎の(笑)人物からの勧誘で「ベートーベンの世界」というコミュニティーに参加しました。私が第一号!(形だけのつもりで入った「ミクシィ」という閉じたブログ内の話です)
そこで、ベートーベン作品の「お気に入りの三曲」という宿題が出ていたので、答えました。以下にコピーして貼り付けます。


1.合唱幻想曲(ガーディナー指揮・ピアノ協奏曲5番とカップリングされています。合唱幻想曲は、ピュアなエネルギーの塊で、感動のあまり全身が痺れてしまいます。クレンペラー盤も対極にある雄大な名演です。)

2.ディアベッリの主題による33の変奏曲(私の好きでないピアニスト、ポリーニによるとんでもない名演奏。2000年の夏に発売された後、一時毎日のように聴いていました。聴き始めると止められなくなる、この曲がこんなに面白くていいの?麻薬のような?超名演。)

3.序曲レオノーレ3番と英雄(レオノーレは、40年間でほとんど全ての演奏を聴きましたが、恐ろしいほどのエネルギーに満ちたクレンペラー盤は、比較を絶しています。いまは、東芝EMIの1300シリーズで、英雄とセットです。英雄もクレンペラー盤がベストです。英雄には同じクレンペラーでもライブのとんでもない凄演もありますが、繰り返し聴くならこのスタジオ録音です。小学生のとき初めて東京文化会館で聴いた曲が英雄でしたが、ただただ長かった!)

武田康弘




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メールで寄せられた感想です。「民知ー恋知と公共哲学」について

2005-10-02 | メール・往復書簡

以下は、法案作成を仕事とするAさんからのメールです。

武田 様

「民知‐恋知と公共哲学」、読みました。
内容は深く高度ですが、とても読みやすい文章でしたので、私にもかなり理解できたように思います。

そうか、哲学ってこういうことだったのか。
実存主義とは、こういうものだったのか。
なるほど、なるほど、という思いです。

「恋知」とは、良い言葉ですね。
「専門知に取り組んでいるときも、そこに自閉するのではなく、生活世界の体験=直観に照らし合わせながら全体の意味を志向すること」
私のような少々専門的でマニアックな仕事をしている者にとっては、かなり重要です。
いつもこれを意識していこうと考えています。
また、私の専門知が武田先生の活動の参考になれば、とも思います。




励みになる感想をどうもありがとうございます。武田康弘





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民知ー恋知と公共哲学 (全文の読み方)

2005-10-01 | 恋知(哲学)

一昨日まで3回に分けて発表した「民知ー恋知と公共哲学」は、「公共的良識人」紙10月号の原稿です。

金泰昌・キムテチャン氏(東大出版会のシリーズ「公共哲学」1~10巻の編者。佐々木毅前・東大総長との共編ですが、実際には金氏が中心で編集)からの依頼によります。民知の思想と運動を広げるために、「哲学」とは?「公共」とは?をその視点で明らかにしてほしいという金氏の要望を受けての文書です。

11000字ですので、一括しては載せられません(ブログの規定を超えてしまいます)。
三日間の文書をコピーしてワード上にに貼り付けてからお読み頂くと読みやすいと思います。ぜひご検討の上、ご意見・ご感想をお寄せ下さい。

武田康弘メールアドレスは、shirakaba2002@k.email.ne.jp です。



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