★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

盛り上がって参りました

2017-03-01 23:05:59 | ニュース


われわれにとってよくないのは、本来の仕事がこけそうな理由がそこかしこに生起することだ。言い訳をつくるのはよくない。とはいえ、ほとんど正気では聞いていられないレベルのプレゼンなどを聞いていると、逆に心を麻痺させるにはちょうどいいというものである。本気で批評したら「感情も何もかも狂ってる」で終わりである。しかし、これを評価するほどの人間が、あらゆる組織の中枢で威張っているため、もはや気分は地下生活者である。

最近話題になり、ここ数日急激にいろいろなことが出てきてなんだかアホらしくなってきた「森×」なんとか事件であるが、もうあまりにもひどすぎて我々の社会が陥っている深さの何もない闇に唖然とするばかりだ。

あの理事長があれであることは、すぐわかるが、問題は、ああいう幼稚園には理事長以上にあれな部下がいるかもしれないということである。出世のためにはトロツキストにもファシストにもなり何でもやる輩は実際いる。親も親である。なぜ、あんな選手宣誓や何やらを放置するのだ?しかし、教育界の片隅にいるわたくしは、確かにあんな現状をありがたがる人間が親も含めてこの業界には大量にいること、そして今や大学生にもいることを知っている。それは所謂「暴力」肯定の人たちや、「道徳」教育の教科化でこの世の春が来たと思っているある種の教育学者だけではなく、むしろ、「一方的に教えるんじゃなく子どもの心に寄り添い夢を持つような子どもを支援したい」とかニコニコしながら言っている学生もその範疇に入る。一見、教育勅語を叫ばしたりするあの理事長と、弱者擁護の人道主義的左翼思想に侵されたようにもみえる大学生が正反対に見えるかもしれないが、そんなことはない。思考の暴力性においてほとんど同一物である。実際に、思想的系譜としてもきちんと研究すれば歴史的につながりが見えてくると思うが、現象だけ取ってみても、日本人の心とか夢を持つ子どもといった妄想を、教育者としていいことをしているという自己愛(これは自己に対する暴力の一種であろう――)で形式論理的に、つまり暴力的に支えている(だから彼らは「支援」という言葉を好むのである。自分を支援してるからね…)ところがほとんど一緒である。だから、彼らはその「支え」、すなわち教育の経験を積めば積むほど、その傾向が増す。かれらに必要なのは、猛烈に本を読み議論をし、大学で自己愛の枝を切り落とすこと――自分に対する暴力を解体することである。彼らの感情は、そのあとでしか回復しないだろう。

確かにそれは見通しが甘い。そんなことができないほど、大学教員の一部は様々に脅迫されているからだ。正直、もう知るかっ、という気分である。

確かに、教育勅語でなくても、ああいう感じの統制をはかると、しゃんとする子どもはいる。戸×なんとかスクールとか、厳しい部活とか、ナチス親衛隊がしゃんとしているのと同じことである。どうしようもない無頼な青年が、軍隊ややくざに入ったら、いい感じに更正することはありうることであろう。げんこつも効き目があるかもしれない。心に寄り添う的な懐柔も実際効き目があるであろう。

しかし、そんな風に「しゃん」としてもしょうがないのだ。それらは猫やダッチワイフを愛でるのと同じ(そういえば、戦時下の杉山平助の作品に「猫と愛国心」というのがある。実に意味深である。)に、言葉や物象への愛で自己をねじ伏せることである。これでしか自分を支援できない人間が大量にいることは確かだが、かれらが社会を動かすのは危険である。必ず、馬鹿馬鹿しい支援=統制が強化されて悲惨なことになる。これは、ヒューマニズムや民主主義によっても対抗できない我々の心の習慣のようなものかもしれない。はじめは社会の乱れや弱者の疎外とかをどうにかしようとして始まるのだが、教育者はそれを地道にどうにかするものすごく長いプロセスに大概は耐えられない。しかし、我々(誰なのか知らんが)は、困難だがそうではない弁証法的なぐにゃぐにゃな道を歩もうとしたのである。それは失敗しつつある。

と思っていたら、鴻池元大臣が、以前、あの理事長に「無礼者といって金を突っ返した」ことがあっただの、「あんな学校は開講させちゃだめ」とか「今回は野党頑張れ」とか、明らかに計画的反攻とみられるインタビューをマスコミ相手にして、夜のニュースは大盛り上がり。わたくしは、この人も大して信用できるとは思えないが、まあおもしろかった。どうも、役人だか秘書だかが勝手に首相につながる事案なので空気を読んで便宜を合法的にはかってしまった可能性がでてきたな……、と思った次第だ。基礎的な問題であるが、政治の堕落とは、トランプや安倍やヒトラーが発狂することではなくて、周りの出世××ガイの小物が勝手にやらかすのであって、政治家の「思想」の責任が問われなければならないのは、そんなありふれた現象があるからだ。