
田中純氏の本はあまり読んでいないが、『死者たちの都市へ』は印象に残っていたのでめくってみた。それにしても今日のNHKの「3・11宗教儀式」は異様だったからだ。私は田舎者なので、ヒトラーは生者のではなく死者の都市をつくろうとしていたと言われると、それ以前に「都市よお前はもう死んでいる」とでも言いたくなってしまう。確かに、都市は、草木の代わりに墓石みたいな建物ばっかりが並べて置いてあるようなものであって、異様だ。大学一年の時に、名古屋のビル群が意識の上では生きていて、しかし本当は死んでた、みたいな小説を書こうとして挫折したことがあるのだ。――どうも、東日本大震災の復興が遅々として進まない理由も、死者が草木や空や海か――、そんなどこかに行ってしまっている感じがするのと関係があるような気がする。都市の場合は、ビルでも建ててお弔いをしないと、という感じになるのかも……。
というのは、冗談であり、中央が東北を差別しているのが一番の理由だろうが、よく分からない。現在の日本という国は、例えば大地震があった場合、復興する金銭的体力は勿論、思想的気力があまりないのが現実なのではないだろうか。この前の敗戦の時は、様々な人たちにとっていろいろやり残したことがあったからね……。原爆も外からだったし。しかし、今回の原発事故は、「日本の戦後の復興」というアイデンティティを粉砕したのだと思う。安倍なんとかは、戦後レジームの脱却とか言ってるが、実際は原発事故以前への復帰が目標なのである。
しかし、何でもかんでも祈りゃいいというものではない。わたくしは黙祷をみているとなんだか非常に恥ずかしくなってくるのである。
田中氏もベンヤミンやカフカを使って述べていたが、暴力に対する「恥辱」の感覚、これは私も考えてみたいことである。