★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

パン屋

2017-03-25 14:11:34 | ニュース


http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24HGS_V20C17A3CR0000/

和菓子屋のどこが国と関係あるのかさっさと教えて欲しいものだ。西洋文明の粋を懲らした戦艦大和がよかったのだから、もはやクロワッサンを麺麭大和とか呼べばいいのではなかろうか。だいたい「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」とかいうたいそうなことは、「源氏物語」や「好色一代男」や「万延元年のフットボール」の勉強をしてない輩にとって、どだい無理な話なのだ。パン屋でも和菓子屋でもいいが、無条件に愛着がわくはずがないのであって、わいているとしたら、相当食欲があるやつだけだろう。しかのみならず、残念ながら、「日本」は愛着を持ったとしても食べることは出来ない。

長期的にみて、食欲で愛国心を釣ろうとする××がいる「国」を愛することは出来ないであろう。小学校一年生の時に和菓子をおごってやったのに、なんで俺を好きにならないのか?と言って幼なじみに迫る男がいたら、スーパー・ストーカーではないか。(違うか)

あそうだ、麺麭がだめなのは、給食が麺麭中心だった戦後レジュームを否定するつもりなのであろう。

もはや、文科省の一部が本気で狂っていないことを「祈るしかない」(昭恵さん風)。いや、具体的な人間を知っているので断言してもいいが、彼らは狂っているわけではない。科研費やその他書類などで鍛えられた、パンや和菓子に変えるごとき、くそみたいな社交辞令的な操作が学問的なところまで侵入しているだけなのである。

そういえば、昭恵氏の「神」は一体何なのであろう?彼女は聖心女子の出だから、あれなのかもしれないが……。さすがに和菓子で日本文化を表象しようという体たらくは論外としても、我々の戦後世界が道徳的なものの創成に完全に失敗したことを意味していることは確かである。インテリ世界だって……、吉本も柄谷も倫理学ではなかった(あ、『倫理21』はあったか)から、明治の宗教的哲学者たち、例えば西田幾多郎が持った意味とは違った。わたくしは、アメリカの陰から無知その他ゆえに解放されつつある若い人たちにようやく「道徳」を考える気運をみているのだが、お偉方のやろうとしていることは、それへの妨害である。国家は彼らを放って置いてほしいものである。とにかく、この和菓子屋の調子では、とにかく、やっていることが「ダサイ」の一言だ。このダサさは精神的な病気のそれを感じさせる。


「道徳」が「全教科書に「いじめ」」をしているとの指摘、さすが『朝日新聞』!