★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

左手で、暴君の王笏を奪い取らなければならぬ

2017-03-10 23:25:51 | 文学


荒正人は、1946年において、「原子核のエネルギイ(火)」でこう言っていた。左手のなすべきことは、少数による政治ではないところの人民の手による政治の実現である。では右手は何していたかと言えば、「星のエネルギイ」、つまり原子核エネルギーを獲得していた。宇宙レベルの獲得をしたのだから、もはや王様の王笏なんか簡単に奪えそう、というわけだ。

全然そうはならなかったのはともかく、そもそも「人民の手による政治」というのが、一体どういうものなのか分からない。荒の見通しは相当甘かったのだ。気になるのは、彼の評論における譬え話の質の悪さみたいなことだ。上の評論でも、火神ロキの話があまりにも譬喩の域を超えている。宮崎アニメならその超え具合がファンタジーとなるが、これは評論なのである。

今日は、研究室から家に帰ると――、どうやら、籠池なんとかさんが記者会見して自分を2・26の将校に喩えたりして「いまにみておれ」とものすごい感じだったらしいが、途中で安倍首相がスーダンから撤退するぞ宣言して「いまのおれをみて」となり、韓国では大統領が罷免されて「いまはのきわ」みたいな感じになっていたのであった。もう誰が主語なのか分からないので文もおかしくなった。

結局、テレビで大々的に演説できたのは、籠池安倍なわけで、「こいつら強いな」と思った人民も多かったであろう。籠池なんとかさんは確かにちょっと飛び抜けていっちゃっている人かも知れないが、彼があんなに自信満々に饒舌なのは、理由がある。私の見たところ、彼のしゃべり口調や思想の一部は、学校現場の偉そうな先生方にかなり共通している側面なのである。なんだか話が長い。その割に内容がなく、たとえ話(よくよく考えると譬えとして間違ってる事も多い)が多く、声が大きく聞き取りやすいといえばそうもいえるが、迫ってくるような独特な抑揚がある。語りかけるようで、結局のところ命令である。これは、普通に考えればたちの悪い人物の特徴であるが、学校ではそうとも言い切れない。学校が狂っていると言っているのではない(言っているが)。学校は、子どもたちをさしあたり勉強させ礼儀作法を身につけさせ、だめな日本社会を渡って行くコミュニケーション能力(笑)をつけるように行動させる場所である(これがよいと言っているのではない。所詮学校はそういう社会のだめな部分にも馴致できるようにする場所であるにすぎない)。そのための手段として、話の内容が理に合っていなくても、譬喩が滅茶苦茶になっても、子どもたちが腰を上げて行動することが最優先なのである。これまた社会の反映であるところの子どもたちはメンタルの弱いギャング的な集団になりがちであり、信じがたく悪意に満ちあふれた子どもというのもいる。潜在的にはつねにそういう子どもからの心理的な脅迫に耐えなければならないのが教師である。子どもたちの一部は「現実の説明」をしても腰を上げない。腰を上げてもらうためには、話を異様にまとまりのある何だか「うまい話」が先にありそうな命令にしなくてはならず、――そのために、それ自体完結した譬喩や権威としての警句やら金言が用いられる。言うまでもなく、それは命令に潜む矛盾が露呈しないための方策であり、籠さんの場合は「教育勅語」だっただけだ。現時点での教育現場の教師に求められているコミュニケーション能力というのは、そういうきれいごとではすまされない側面をもともと孕んでいる。最近は、特にこの傾向が強まっているような気がする。教師は程度の差こそあれまともではいられないのだ。しかし、学生時代きちんと学問をした教師は、調子に乗って、豊葦原千五百秋瑞穂国の説明を振りかざしたりしないものである。教育学部における学問は、そういう暴走を防ぐために絶対に必要である。

子どもたちも教員も、社会の影響を過剰に受けている。学校が閉鎖的だなんてとんでもない。それは我々の社会が縮小されて監獄じみているにすぎない。先生が妙な嘘くさい演説で子どもを支援(強制)するようになっているとすれば、先生が、最近の流行の「人を強制するための作法」を模倣しているにすぎないのだと思われる。確かに先生の強制する内容は、まだ他の機関のボスの言うことに比べれば、人権とか善意にあふれたものであるかもしれないが、やり方は社会の反映であることが多いのではなかろうか。そもそも一般的に真偽を無視して命令を出せるというのが、「親分」の特徴である。やくざ映画を観りゃわかる。「白を黒といわれても親分の…」というやつである。真偽を超えられるところに我々は恐怖を抱く。トランプも安倍もある種の左翼もそうやって人を脅しつけているだけである。今回のおやじもその類だ。

というわけで、私は、自分の関係する業界のあれな感じを思い出して心底嫌な気分になったが、しかし、先生方の大多数はさすがにあれではない。子どもに寄り添うとかいうスローガンは私は嫌いだが、子どもを心配して眠れないのが多くの先生たちである。やはり今回の例は別種の出来事だ。主犯が誰なのかは分からないが、政治家とつるんで愉快に事を進めていたら、思わぬ横槍が入ってびっくりしたが、最後は、全国放送で思い切り恐怖をばらまけたのだから、彼らとしたら大成功なのかも知れない。そもそも、この事件は、教育問題というよりは政治家と森友おやじの癒着の問題だ。マフィアの政治介入みたいな話題である。そう考えたら、まあ、昨日youtubeで「政治家の皆さんは嘘つくんじゃないよ」と脅したおやじには、今日の午後までには金が渡っていると考えるのが、普通の感覚であろう。私が「ゴッドファーザー」の作者ならそう考える。恐ろしいねえ……