
大学の頃、村上春樹みたいな文体を拒否するにはどうしたらいいのか考えたことがある。もっぱら私は、それを小説創作上の問題として考えていたのだが、平野啓一郎が出てきて、あれっ、と思った。なんというか、これは文体ではなくて他の何ものかであって、その頃聞きかじりのエクリチュール(書記法)の問題が世の中にはあるのだということを思った……というのは、馬鹿な大学院生としての感想であって、本当は、彼のような書き方が出てきたのは「文学的」な問題として非常によく分かる気がしたのである。
最近、首相だけでなく、他の党首などもなんだか妙な文体でしゃべっているように思うが、女子高生がしゃべる言葉が変化するように、彼らの言葉が変化するのは当たり前だ。とはいえ、戦時中の新聞の文体と、安倍首相のしゃべりはあまりにも異なる。……うつらうつらこんなことを考えて、吉本隆明や時枝誠記をめくっていたら日が暮れた。