★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

青春よ、若さよ それは春の日の美しさ

2017-03-09 20:21:31 | 思想


青春よ、若さよ
それは春の日の美しさ
ファシズムにおいてこそ
われらの自由は救われん
――「青春よ若さよ」
https://www.youtube.com/watch?v=3erP5gnUogg

こんな歌。

わたくしは、日本というのは、ちょっとイタリアに似ていると思っているところがあるので、上のようなイタリアファシズムの研究などを読んで勉強したこともある。例えば、1919(大正8)年にでた「戦士のファッショ」綱領などを読んでみりゃ、あらっ、ということが書いてあるのは面白い。

・選挙権の十八歳への引き下げ
・上院を廃止して職能代表による国民評議会を
・外国の帝国主義に抵抗して、イタリアの意思と能力を発揮させる対外政策を……
実質的な八時間労働
・最低賃金を決める
・工業の運営に労働者を参加させる
・サービス機関の運営を道徳的・技術的にすぐれたプロレタリアートに任せる
・職業によって労働の年齢制限撤廃
・地主に耕作を義務づけ
・義務教育制――非宗教的な「国民意識」を育成=プロレタリアートの道徳的文化的向上
・国民軍創設

などなど……。いろいろ最近の我が国に似ているので面白いが、この綱領が労働者革命を志向していることだけではなく、この綱領をぶちあげた人たちが「塹壕から復員」してきた者達だったことは重要であろう。しかし、彼らの「暴力を辞さず死線を越えて頑張る」みたいな精神がすぐ暴走できるほど、安定した社会は甘くない。他の復員軍人ともそりがあわなかった。ところが、ある選挙で社会党が勝った時に、その就任式に襲撃をかけたファシストがいて、そのときなぜか分からんが世論がファシストの方に喝采してしまう。たぶん、彼らが既成左翼に襲撃をかけてくれたからからかな?そしてなんだか連鎖反応のように彼らとは直接関係がない「地方ファッショ」を決起させてしまう。自信を得た彼らは所謂「懲罰遠征」をはじめて各地方の社会主義の団体を撃破して行く。しかし、彼らは政治に関しては素人なので、それゆえに暴力と脅迫をもって頑張ろうとしてしまい……(以下略)

だいたい、こういうことが上の本には書いてあったと記憶する。

大学や官庁でもみられる現象であるが、ファッショ的な雰囲気の醸成には、専門外の素人のがんばりという点がある気がする。そこには兵士・労働者としての悲しみとプライドが賭けられているのだ。そして、それを利用しようとする輩がそのまわりに集まってくるのである。かくして、なぜか組織の中で一番できないやつがいつの間にかトップになっており、彼の知能に合わせて物事を進めなければならない地獄の日々が始まるのである。

最近、話題の籠池なんとかさんも、あまりにも人間的にあれにみえるとはいえ、ある種かかる「頑張り屋」だったのであろう。ただ、なぜ教育勅語を暗唱させるとか体罰も辞さずみたいな妙な方向に行ってしまったのであろうか?教育者としては、思想が問題でもあるが、なによりもやり方が素人くさいのである。教育者はだいたい、妙なスローガンを掲げることも多いが、それをうまく使う技術が必要である。それがないと仮にスローガンがまともであっても全く効果はない。例えば、中学一年のときに「学校一番のクラスになろう」とか、担任の若い先生がクラスの目標として掲げていたが、私はこのスローガンをみた瞬間に虫酸が走ったので、一年間いらいらし、勉強に身が入らなかった。あ、これはスローガンがだめな場合だった、すみません……

自分を含めた子どもとの共同体をどうつくるかという課題は、現時点では教育者なら避けて通れない。現実的にまあそうであろう。籠池なんとかさんも示唆したいところだろうが、何かこう、つっかえ棒みたいなもの(生きる上でのスローガン)が必要で、だからこそ個人が「強く」なるのだという理屈は、たぶん明治政府が意識していたことでもあろう。我が国には、しかし、これを主体的・内発的に作り上げたというフィクションがないし、たぶん能力もない。つまり根本的に「弱い」。だから権威ある明治天皇に言わせてと……という感じだったにちがいない。

ただ、問題は、「爾臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。」という文言が、箇条書きではなく、ひと繋がりだということに良く現れている。十二の徳目とか言うけど、これは十二もなくて一つしかないのだ。父母や兄弟や、国法や「緩急ア」るときなどの各観点の内実を道徳的すなわち批判的にとらえる余地がなく、全体としてなんとなく「臣民たちよみんな仲良く扶翼せよ」みたいな文になっているのが問題だ。扶翼とは支援することみたいな意味であるが……、また出たよ、「支援」が。それはともかく、その「支援」の対象は「天壤無窮ノ皇運」で、そんな幸運な皇運があったのかどうか知らないが、仮にもそれが正しいと思うなら、それ単独で主張すれば良いものを、なんかそれだけだと弱いので、父母とか兄弟とか朋友の価値――一見みんなが疑いそうもない儒教的な何かをくっつけてるとしか思えない。しかし、その父母とか兄弟とか朋友が、無条件で良いものではないことは、それこそ幼稚園児だって知っていることである。したがって、上のせりふ通りに生きようとすれば、とにかく周りの人間にニコニコ「支援します」的な態度でやたら「せさせていただきます」の如き自尊敬語みたいな言葉を振りまき感情を押し殺していればいいことになる。そして、我々は本当はそれが処世術であることを自覚しているので、陰で過剰に利己主義的になって行くのである。戦時中がそうだったではないか、そして今もそうではないか。

要するに、「教育勅語」は、父母とか兄弟とか夫婦とか友人――我々の争いの種につねになるものである――に対する道徳について試行錯誤する余地を否定し、つまり道徳の生成ではなく道徳そのものを抑圧することこそが目指されているのである。というわけで、教育勅語をバラバラに分解し、道徳として脱構築することこそがこれからなされなければならない――なわけはないのだが、やってみることにしよう。

①朕(以下略)……天皇に言われてやるというところがまず、アクティブラーニング的に、いや近代以前的であかん。だいたい、幼児に「教育勅語」をいわせてどうするのだ、主語は「朕」だぞ。不敬でつかまるぞ……(この前、宮台真司もそういうこと言ってたな……)要するに、籠池のやっていたことは、「教育勅語」を爾に言わせている俺は天皇みたいに偉いという訳分からない循環的表現だ。

②「父母」から離れた方がよい場合が多いことは、もう自明の理だろう。私の妄想であるが、最近反抗期がなくなった子が多いというのは、親と仲良くしなきゃいけないと言われているからじゃないのかね?馬鹿な親は否定しなきゃいけないに決まってるだろうが。

③「夫婦相和し」の反動性については、さんざフェミニストたちが言い立てたからもう常識的であろうが――、誰かも言っていたが、これはむしろ男が、ロミオや譲治なみの這いつくばり的ラブをしなくてもいい理由にもなっている。日本人の愛のかたちの可能性をだいぶ削いでいると言えよう。

④兄弟が仲良かったら、天皇の歴史はずいぶん変わっているだろうが、それは無視するのか?

⑤朋友相信じ、られる訳ないだろうが。モリ友「ズッ友だよ……」(笑)https://matome.naver.jp/odai/2133648865927163301

⑥恭儉己レヲ持シって、己の確立もしていない奴がヘイコラしても何の意味もなしというか、かわいそうですよ……。だいたいこういうことを言う輩こそ威張り腐っており、自分以外に謙虚さを求めるのである。にも関わらず、自分は謙虚だと思っている。なぜかというと、大概、大ボスに随伴して「一生付いてきます」みたいな態度をとるところから出発しているからだ。しかしそういう態度が端から見ていてどうみても「俺の言うことこそ正しい」という態度に見えることは言うまでもない。ホントの謙虚さは、謙譲の美徳ではなく自己批判からしか出て来ない。つまり、容易に人にヘイコラしない人ほど実際は謙虚なのである。この場合、大ボスが誰であるかは自明の理なので省略。

⑦博愛衆ニ及ボスのがきついから、トランプが出てくるんですよ。ていうか、恭倹と博愛がセットになった人って、結局、何もしなさそうですね。実際しないでしょう。実際は、博愛は自由人の精神であるからして。

⑧学を……、勉強なんかしなくても別にかまわないんですけど……、あそうだ、お偉方は別。

⑨「以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ」……役人はちゃんとボスへの忖度ばっかしてないでちゃんと仕事をしましょうね。

⑩「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」。日本史を復習してから検討いたしますので、あと四〇年くらい待ってください。また、相手に理があった場合はお断りだ。

……というわけで、「教育勅語」というのは、「みんな仲良く時代や天皇に従って」みたいな陰険な人々にとっては現実の説明として単に自明の理であろうが、よくよく考えてみると自分で考えようとする少数派を無視し、場合によっては不正義を働く輩(親兄弟ズッ友夫/婦など)を免罪する仕組みになっていて、一箇所もいいところはない。ここまでくると上のファシストがよく見えてきたが、なぜかというと、まだ少数派に対する顧慮があるからだ。――本当はないのだが、それでも教育勅語よりはまだ多数派に対するファイトが感じられる。(そういえば戦前から、「教育勅語」がなんとなく教えとして一般的で「弱い」ので何とかしようという動きはあったのである。しかし、上記のように、この「弱さ」があるから、教育勅語は好まれるのだ。)外山恒一とか絓秀実が言いたいのはそんなニュアンスだろう。というのは、冗談だが、――籠池なんとかさんや、稲田なんとかさんとか、教育勅語がいいとか他人の褌で威張らないで、自分の感情にちゃんと目覚めることが必要である。謙譲や友情や忠義など、他人にたよる道徳で人を支援(強制)する必要はなく、自分の弱さがどういう点にあるのか、それだけにまずは集中してもらいたい。これは、教育者のみなさんに言いたいことでもあるし、私も日々心がけようと思うことでもある。なかなか難しい訳だが……。ただ、そこに「空」としての自我を見出してみたり、やはり「神様」的なものが必要だといった、エリート然とした利いた風な結論に容易に達しないで欲しい。まともな多くの人は、そんな精神的地点で興奮しなくてもなんとかやっているのである。思い上がらないでもらいたい。

まあ、イタリアのファシストたちもプロレタリアートの「道徳的」向上とか言っていたわけだから、われわれと似たり寄ったりなのだろうけれども、あっちはあっちの事情があるから、我々の参考にはならない。