★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「君の名は。」を文豪が書き直します

2017-03-03 23:48:40 | 映画


わたくしがまだ「君の名は。」を観ていなかったためか、まだ映画館で上映していた…。

評判通り、よくできた作品だと思った。新海誠の作品についていえば、どうも音楽の使い方が私の趣味と全くあわず、今回の「でんでんなんとか」だか「全然だめだめ」だかというテーマ曲は、すべてペンデルツキの交響曲に変えた方がいいと思った。100歩譲ってスクリアビンの交響曲でもいい。それはともかく、わたくしのなかの思春期が5回ぐらい泣いたし…。新海誠の作品はいまのところ全部そうだと思うけど、「思春期」とは何かということが大テーマである。たぶん。今回のもSFで、タイムパラドックス?の原因に、横溝正史だかJホラー経由だかの日本の土俗的なんちゃらとモノリス的石が使われているだけであるが、基本的にはそういうことは本当はどうでもよく、「思春期における夢は虚妄にあらず」ということを一生懸命やっているわけである。実景と見まごうばかりの風景と青春は、確かに近代文学的なものを想起させるが、平安朝的美男美女的オカルトにスライドするものもつねに秘めているものである。この映画は、芥川龍之介の「河童」のようなものよりも、「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」みたいなものだ。どっかにかいてあったが、新海誠は本当にこの和歌から本作品を思いついたらしい。そういえば、今でも、由緒があるんだか金持ってるんだかしらないが、方違えを行う家だってあるくらいだ。問題は、なぜ我々がこんな思春期状態に置かれ続けているかにある。なぜかと言えば、その「夢」は戯れの趣を持つにせよ信じつづければ自我の崩壊があり得るからであり、――過去の新海の作品では崩壊した自我が描かれていたこともあるが、今回は壊れなかっただけだ。そこには理由が必要であり、3・11をおもわせる隕石衝突による大量死のトラウマからの回復という理屈がつかわれていることはおもしろい。終戦直後の「君の名は」もそうだが、我々は、戦争と自然災害による人の死を踏み台にして崩壊の戯れに終止符を打つのである。

というか、飛騨がモデルになっているらしい、作品の舞台――、あんな風景は、私の田舎の木曽にすんでりゃ毎日拝めるぜ。ただし、黄昏時というかかたわれ時は午後3時くらいだけどね……。町内放送が、各家に流れる場面があるけど、いまも実家にありますよ。ぴんぽんぱんぽーん……広報木曽福島です……

面白いと思ったのは、思春期の恋が、案外男女混淆的というか、男女混触的というか、よくわからんが――そういう感覚にあることをこの監督が知っていることであろう。そんな混淆的なものというのは、根本的な恋の特徴なのである。いやそれは本当に「混淆」であるかも不明で、「乙女チック」に近い何者かが恋愛感情なのかも知れないのだ。我々は、最初に、入れ替わった男女が、おっぱいや男性器に触ることで、そういう感覚に連れ戻される。「とりかえばや物語」とかに先見性をみる学者というのはなぜか軽薄な人が多いのであるが、それはともかく――、確かに、近代は肉と霊とか言って、劣情を刺激しすぎていたかもしれない……

というわけで、近代文学の学徒として、「君の名は。」を各作家に書き直してもらった。

★名前を思い出した二人は同棲を始めるが、瀧は頑固者だったので全く会社に受からぬ。しかし瀧の三葉に対する虫奴は何時の間にか太く逞しく成ッて「何したのじゃアないか」ト疑ッた頃には、既に「添たいの蛇」という蛇に成ッて這廻ッていた。つい錯乱し「オイオイ姉さん、シャツを持ッてッとくれッてば……オイ……ヤ失敬な、モウ往ちまッた。渠奴近頃生意気になっていかん。先刻も僕ア喧嘩して遣たんだ。婦人の癖に瀧三葉と云う名刺を拵らえるッてッたから、お三ッ子で沢山だッてッたら、非常に憤ッたッけ」(三葉亭四迷「アアラ爾の挙動」)

★「君の名は。」と呼びかけしが答えず「我を救ひ玉へ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。家に一銭の貯だになし。」跡は欷歔の声のみ。我眼はこのうつむきたる少女の顫ふ項にのみ注がれたり。(鷗外「君は舞姫」)

★「君は……。」
「まあ、何と申上げて可か解りませんけれど――』と三葉は耳の根元までも紅くなつて、『私はもう其積りで居りますんですよ。』
『一生?』と克彦は三葉の顔を熟視り乍ら尋ねた。
『はあ。』
 この三葉の答は克彦の心を驚したのである。愛も、涙も、決心も、すべて斯の一息のうちに含まれて居た。(島崎藤村「君の身分は」)

★「君の足は……。よ、なぜ黙っている!何とか云ってくれ!否なら己を殺してくれ!」
「変態!」
「変態で悪いか」
「誰がそんな変態を、相手になんかしてやるもんか」
「じゃあ己を馬にしてくれ、いつかのように己の背中へ乗っかってくれ、どうしても否ならそれだけでもいい!」
私はそう云って、そこへ四つン這いになりました。(谷崎潤一郎「君の四つン這い」)

★「おい地獄さ行ぐんだで!」
 瀧と三葉はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。――瀧は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。三葉は身体一杯酒臭かった。(小林多喜二「君との工船」)

★ 私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
 一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹たちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
「可愛い坊ちゃんですね」
 といい加減なお世辞を言っても、まんざら空お世辞に聞えないくらいの、謂わば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
 と頗る不快そうに呟き、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。
 まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。(太宰治「人間失格」)……すごい、そのまま使える……

★無気味なほど鮮やかな火口壁が、いきなり眼に飛び込んで来た。瀧は用心深く仰角を上げる。二度三度左右に動かし、やっと三葉の姿をとらえる。三葉は歩いている。立ち止って、火口をのぞく。その真下に噴火口がある。瀧は望遠鏡を下方に移す。壁は垂直に火口から立っている。火口には熱泥がぶくぶくと泡立っている。
〈あそこに飛び込めば、イチコロだな〉
 眺めているのが苦痛になって来たので、彼は荒々しく望遠鏡を上げる。高岳や根子岳、外輪山、その果てに遠くの山脈が重なり合っている。その上にすさまじい青さで、空がひろがっている。時間が来て、まっくらになる。瀧はまた十円玉を入れた。ふたたび視野に、三葉の姿が戻って来た。
 三葉はトランクを下に置き、それに腰かけていた。ハンカチで汗を拭いている。拭き終ると、立ち上る。トランクを提げて歩き出す。くたびれたのか、足の動きが緩慢だ。ちょっとよろよろとした。石につまずいたのだろう。三葉を見ているのか、自分を見ているのか、自分でも判らないような状態になって、瀧は胸の中で叫んでいる。
「しっかり歩け。元気出して歩け!」
 もちろん三葉の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。……また歩き出す。……立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなって行くようだ。そしてふらふらと歩き出す。――(梅崎春生「幻君」)

★吾輩は猫である。名前はまだ、思い出せない。――そんな夢を見た。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。(夏目漱石「吾輩は。」)