★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

お前、もう僕等はいつでも

2018-07-04 23:52:29 | 文学


『コギト』の肥下恆夫に、「憂愁」という小説がある。わたくしは、後に『日本浪漫派』で旋回してゆく連中の若い頃の小説がわりと好きなのである。これは、肥下みたいな語り手が、大学時代の友人――獄中の友人と妻の存在の間で心理的にふらふらしている様子を描いた作品である。文学史的には「転向文学」の一種と言うことになるであろうが、肥下は地主階級に属していた。澤村修治氏の研究などによると、『コギト』を実質的に切り盛りしていたのは彼だったみたいで、保田をはじめとするやくざなインテリは彼に寄生していたわけである。だから、彼の場合、本当は心理的にふらふらしているどころの話ではなく、もう実際のところ、立ち往生していたと言った方が正確だ。

彼は、獄中の友人の母親から絶望的な手紙をもらって、もし自分も獄中に行ったら、とか想像する。しかし、彼は、それにしては――みんな(妻や友人やなにやら)を支えるポジションに立つ、しかも滅び行く階級の一部であった。だから、彼は動きようのない人物だ――既に立ち往生していたのである。自分が滅びたら、――それは現実的にありえない。そういう既に葛藤でない葛藤が、小説の最後で、自分は「自分に対して細心すぎる」のだという把握となって欺瞞的に響くことになる。

こんな状態を乗り越えるのは、行動だというわけで、彼は町のなかをほっつき歩いたりするのであるが、どうにもならない。彼は妻に言う「ね、お前、もう僕等はいつでも死ぬ覚悟をしてゐなければ……」

彼が、ストリンドベルリの「ダマスカスへ」を獄中の彼に送ろうか、それともニーチェにしようかなどと、――あまりにも紋切り型の認識で悩んでいるのにもなんだか泣けてくる。

肥下は農地改革後、本当に自死してしまったのであるが、その自死は、太宰のものとも三島のものとも違う悲劇性がある。わたくしは、こういう縁の下の弱者(力もちではない)に同情的でありたいと思う。太宰と三島は小狡いからきらい。プイッ