★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

眼つきが怪しいとの理由で――田中英光

2018-07-05 23:34:05 | 文学
彼はただ新宿に映画を見た時、眼つきが怪しいとの理由で、駅頭に張っていた特高に掴まった。ポケットに築地の切符の切端しが残っていたので、豚箱に入れられ、ワセダの下宿先を捜査されると、始末してなかったアカハタが一部出てきた。
 その為、彼は淀橋、戸塚と二つの警察を二十九日間宛のタライ廻しを食い、毎日のように拷問されたが、自分のルウズさから友人に迷惑をかけまいと、歯を食いしばり、知らぬ存ぜぬで頑張り続け、義兄の弁護士の奔走で、約二カ月目に釈放されたが、その日すぐ学校に出てきて、ぼくたち仲間と、微笑と涙の握手、談笑を交していながら、その夜、下宿の一室で前述のようにして自殺したのだ。ぼくは相不変、死体をみるのが厭で苦しかったが、この時は他の友人たちの手前、わざと嫌いな蛇を掴んでみせるような気持で、彼の死体の置かれた部屋に駆けつけていった。池田は一番苦痛のない死に方を選び、大量の睡眠剤を飲んだ上、金盥に温湯を入れ、そこに動脈を切った手首を入れたものらしい。全身の血がしぼり出されたように、血は金盥を越え畳一面に染みていた。その代り白蝋のように血の気のない彼の死顔は放心した如くのどかにみえた。だがぼくは彼の死魚のような瞳の奥に、死への焦燥と恐怖を認め、やはり死体へのどうにもならぬ嫌悪があった。その遺書には睡眠剤が利いてきてからのものらしく、シドロモドロに乱れていてこんな意味のことが書いてあった。


――田中英光「さようなら」


田中英光という人の文章は、読むときの気分ですごく表情をかえる奇妙なところがある。彼を信奉する西村賢太氏はどこかで、驚くべき下手さ、とかなんとか言っていた気がする。わたくしは、あまり下手とは思わないのであるが、ちょっとセンチメンタルなストリンドベルリみたいなところがあると思う。「さようなら」なんて、全体がものすごい速さの走馬燈のようでやりきれない。それにしても、最後のあたりなんか、太宰のまねをしている割にはちょっと素人くさくて、やっぱり「下手なのか」とも思った。

とはいえ、最近、『コギト』所載の小説を読んでいるからなのか、――戦前のウジウジしたロマン派をやっつけられる逸材として注目されたのも分かる気がする。――といった風に、みんなが田中英光のことを〈人材〉みたいに扱っているから、ついに彼は自分をまた作品のネタみたいに扱ってしまったのではなかろうか。考えてみると、ネット時代というのは、田中みたいな人を多く生産している気がする。

なにしろ、原稿用紙とそれを観る視覚も他人に奪われているような情況だ。有能な人でも大概おかしくなってくることは避けられない。