思ふこと 心になかふ身なりせば 秋のわかれを ふかく知らまし
とばかり書かかれたるをも、え見やられず、事よろしきときこそ腰折れかかりたることも思ひつづけけれ、ともかくもいふべきかたもおぼえぬままに、
かけてこそ 思はざりしか この世にて しばしも君に わかるべしとは
いとど人めも見えず、さびしく心ぼそくうちながめつつ、いづこばかりと、明け暮れ思ひやる。
もうけっこう歳なので、娘とは最後になるかも知れない。で、涙を流しながら出て行ってしまった。のこされていたのは、「思ふこと」の歌である。自分の思い通りのことを実現出来る身であったなら、秋の別れさえも深く味わうことができるのだが、と。確かに、源氏物語や伊勢物語だと、悲しい別れでも逆に主人公たちの詩の才能は燃えあがる。危機に臨んでものがよく見えるのは、普段から自由がある連中だけだ、と父親は言いたいのであろうか。娘も、普段なら「腰折れ歌」(五七五で内容が途切れる歌)でも何でも出てくるのに、まったく何も出てこない。やっと出てきた歌が「かけてこそ」の歌である。まるで説明文だ……。
この作品、結構な不幸が続いているのだが、考えてみると、火事とか猫の焼死とか死別とか、外部からやってくる不幸であって、まだまだ孝標の娘自身から出てくる不幸というものがほとんどない。その意味で、源氏物語の世界を夢みる少女であるが、自分は人生の物語からもまだ疎外されている状態である。
これからが大変なのだ。
今日、すごく久しぶりに、ベルクのピアノソナタを弾いてみたが、この作品は作品番号1なのだ。すでに貫禄ある作品で、素晴らしい響きである。よちよちとした動きしかできなくなっているわたくしの指からでも、ヴォツェックやルルの響きがしている。
梶井基次郎の作品に感じられる響きである。考えてみると、この時代の芸術家たちは、後のふつうの人々の不幸が大きかったために、人生から逆に疎外されている感さえあるのではなかろうか。梅崎春生や埴谷雄高はそういう風潮に抵抗したかったのではなかろうか。
七月初、坊津にいた。往昔、遣唐使が船出をしたところである。その小さな美しい港を見下す峠で、基地隊の基地通信に当っていた。私は、暗号員であった。毎日、崖を滑り降りて魚釣りに行ったり、山に楊梅を取りに行ったり、朝夕峠を通る坊津郵便局の女事務員と仲良くなったり、よそめにはのんびりと日を過した。電報は少なかった。日に一通か二通。無い時もあった。此のような生活をしながらも、目に見えぬ何物かが次第に輪を狭めて身体を緊めつけて来るのを、私は痛いほど感じ始めた。歯ぎしりするような気持で、私は連日遊び呆けた。月に一度は必ず、米軍の飛行機が鋭い音を響かせながら、峠の上を翔った。ふり仰ぐと、初夏の光を吸った翼のいろが、ナイフのように不気味に光った。
或る朝、一通の電報が来た。
――梅崎春生「桜島」
この調子が、兵士たちの共通感覚に侵略されてしまうのがこの小説のような気がする。梅崎は、だから晩年に再度、桜島に回帰してこなければならないのだ。