遠藤周作の「沈黙」については、一回授業でもちゃんと取りあげてみたい。スコセッシ監督の『沈黙――サイレンス』も観たことだし……。わたくしも中学生の頃原作を読んで、すごくショックを受けた。大学生の時「深い河」を読んで、何かが間違っているような気がしたがそれ以上は何も思わなかった。
最近の感想としては――、やはり「沈黙」はあそこで終わってはならなかったのではないかというのが、小説の体裁などを無視した感想である。転んで主の声を自らの苦悩として聞いた主人公が、そのあとの長い長い人生をどう構築したのかが問題であって、――われわれだって、その長々としたなかでただ死ぬのを待っているわけじゃあるまい。日本は泥沼という形容は間違っていると思う。それこそ泥沼にもいろいろな歴史が……ある。沈黙しているのは、神ではなく、遠藤周作であり、われわれである。
遠藤周作がおそらく考えたように、われわれ日本人は大概は転向者なのである。ただ、転向したあとだっていろいろある。キチジローみたく、連続する転向みたいなタイプはむしろ幸福なのであって、もっとしたたかに生きているものが大多数である。そこをキチンと実態的に評価しないと、また泥沼にも花が咲くみたいな感じでオウムみたいな人たちが花火を上げたがるような「反応」がでてきてしまうのではないか。したたかな人たちが彼らを村八分にしてしまうのは、ただの保守性や卑劣さからは説明のつかないある感情が働いている。
NHKでやってたオウム真理教の番組みてたら、麻原というのがあんまり俗っぽいあれなので、信者達が義務感と純粋さで突っ走ったという可能性までわたくしは感じたが、いずれにせよ、組織内のことである、いろいろな忖度合戦があったはずであり、それは麻原だけが真実を述べていればワカルはなしではない。帰依した人間というのは、教祖なきあとの組織のことまで常に考えているものであり、だから、むしろ、オウム事件は、主要人物の逮捕以後が物語の本番なのである。必ず教祖より優秀なやつが出てきているはずである。なぜ、わたくしにそんな事がわかるのかっ。わたくしが属していた組織では100%そうだったからである。それははじめのオウム真理教とは似ても似つかぬものになっているかもしれないし――そもそも宗教でない形に変化しているかもしれないし、すごく似ているかもしれない。そこは分からない。吉本隆明はおそらく、そこらまで勝手に推測していて盛り上がってしまったところがある。さすがであった。
いずれにせよ、宮台真司が言うように、神秘体験とか帰依のシステムなんか、会社や政党でやっていることとほとんど同じであったに違いなく、オウム事件なんか極めてありふれたわれわれの姿の追求から考察できる事柄に過ぎない。ただ、それは「沈黙」を再度書き直すような作業であり、やればできるというものではないかもしれない。