萩尾望都に「イグアナの娘」という作品がある。テレビドラマにもなったらしいがみていない。
主人公の娘は、生まれたときからイグアナなのであるが、そうみえるのは本人と母親だけである。母親の葬式で、娘が、自分がイグアナから転生したものであることを思い出すことで、――一応彼女がイグアナであることは整合性がついているのであるが、母親だけがそれを知っていることの謎は残っている。人間に恋して人間への転生を願ったイグアナの、人間としての幸福を阻害してしたのは、彼女を産んだ母親であって、いわば自分の肉体の生成元であった。つまり、この作品は、おそらく、肉体と精神の同一性への希求による激しい対立が大きなテーマなのである。(少女漫画だから、それは「容姿」の問題と思われてしまうかもしれないが違うのではなかろうか)だから、彼女は母親の死と、そして、本当の(転生前の)母親はイグアナに過ぎなかったことを受け入れることで、精神としての人間の生活に完全に移行できたのであった。
しかし、なぜイグアナみたいなものが肉体の問題としてでてくるのか。
わたくしは、肉体嫌悪(翻っての過大評価)みたいな問題を、あまり軽視すべきではないと思うのである。わたくしも、生まれてこの方、肉体の不調に悩まされてきたのであるが、――こういう人に多いと思うけれども、小さい頃から、自分の体が自分ではないような感じが常にあって、これはわたくしの人格形成に大きな影響を与えていると思う。こういうタイプは必ずしも精神的な人間になるとは限らず、むしろ逆である可能性が高い。わたくしはそういう危険性に常におびえていた気がする。わたくしの思春期にもう少し挫折が多くあったら、あるいはもっと成功があったなら、まったくどうなっていたのか分からない。
先日、オウム真理教の親分と幹部が死刑になったが、彼らが、結局肉体をコントロールして精神を高めるみたいなやり方をしていたのがわたくしには印象に残っている。彼らは、まったく精神を信用していないのである。彼らのサリン事件は基本的には、おそらく対米政策だったのであるが、アメリカが攻めてこようと、アルマゲドンが来ようと、あるいは、選挙で落ちようと、精神的な人間にとっては痛くも痒くもないはずである。坂口安吾で言うと、堕落する力があるということであるが、彼らは全くそれがないのだ。だいたい、バブル崩壊やオウム事件によって、日本社会が変わったというのは一部は当たっているけれども、やや浅薄な見方で、結局のところ反映論以外の何者でない。やたら忖度しかできない最近の連中の発想もおんなじである。ただ、こういうのが上のようなある種の体の不調みたいなものからくることをわたくしなんかは推測するから、宮台真司みたく、彼らを「クズ」と呼べないだけだ。確かにクズなんだけれども。
萩尾望都のマンガは、力が入っているところで、言葉にすごく重心がかかるのだが、この作品でも末尾で
わたしは涙と一緒に わたしの苦しみを流した
どこかに 母の涙が凝っている
という表現がある。非常に居心地の悪い表現で、さすがだと思った。
内田樹氏はよく「惻隠の情」の重要性を言うが、これは氏の体がなんだか丈夫であることと関係があると思う。他人の体を心配し思い描けるということは、必ずしも自分の体の弱さを知っていることと同じではなく、相手の精神に対する信頼から来るものだと思う。残念ながら、この信頼は、体が丈夫なやつは早くから身につくのではなかろうか。体の弱さは、自分の体と他人の体をコントロールする欲望につながってしまうのが屡々であるような気がする。