★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

自讃譚の今昔

2020-01-11 23:42:58 | 文学


頭の中将の、すずろなるそら言を聞きて、いみじう言ひおとし、「なにしに人と思ひほめけむ」など、殿上にていみじうなむのたまふと聞くにも、はづかしけれど、「まことならばこそあらめ、おのづから聞き直し給ひてむ」と、笑ひてあるに、黒戸の前など渡るにも、声などする折は、袖をふたぎて、つゆ見おこせず、いみじうにくみたまへば、ともかうも言はず、見も入れで過すに、二月つごもり方、いみじう雨降りてつれづれなるに、御物忌に籠りて、「『さすがにさうざうしくこそあれ。ものや言ひやらまし』となむ、のたまふ」と人々語れど、「よにあらじ」など、答へてあるに、日一日、下にゐ暮して参りたれば、夜の御殿に入らせ給ひにけり。
長押の下に火近く取り寄せて、扁をぞつく。「あなうれし。とくおはせ。」など、見つけて言へど、すさまじき心地して、何しに上りつらむと、おぼゆ。炭櫃のもとに居たれば、そこにまたあまた居て、ものなど言ふに、「なにがしさぶらふ」と、いとはなやかに言ふ。「あやし。いつの間に、何事のあるぞ」と、問はすれば、主殿司なりけり。


頭中将は藤原斉信で、この人が送ってきた白氏文集の一節に対して、漢詩ではなく、和歌の下の句を返したところ、頭中将は唸って「いみじき盗人を。なほえこそ思ひ捨つまじけれ」(大変な素早いくせ者だ、やはり無視は出来ぬなあ)と驚かしたという、自画自賛のおはなしである。この話に持って行く上の導入部がいい。「扁つき」という遊びは扁から漢字を当てさせるみたいなものらしいのだが、よくわからんらしい――にしても、この遊びがちゃんとその後の話の予兆となっているとおもう。このあと彼女は作品の一部を当てさせるレベルの低い問には答えないのであって、――扁つき遊びに対しても、すさまじき心地で無視しているところが、自分の気分を曲げない知識人という感じですばらしいのではないだろうか(棒読み)。

いまでも、こういう輩は結構おり、人を論破した自慢ばかりしている。――彼らの心理はよくわからない。清少納言の場合もよくわからんが……。

近代の才人と言えば、太宰治であろう。

しかるにまた、献身、謙譲、義侠のふうをてらい、鳳凰、極楽鳥の秀抜、華麗を装わむとするの情、この市に住むものたちより激しきはないのである。そう言う私だとて病人づらをして、世評などは、と涼しげにいやいやをして見せながらも、内心如夜叉、敵を論破するためには私立探偵を十円くらいでたのんで来て、その論敵の氏と育ちと学問と素行と病気と失敗とを赤裸々に洗わせ、それを参考にしてそろそろとおのれの論陣をかためて行く。因果。

――太宰治「虚栄の市」(もの思う葦)


太宰の「もの思う葦」を再読してみると、この作家の雑文の才能の高さに驚くほかはないが、その内容はなんだか懐かしい。昔、ある同業者に「ルサンチマンが強すぎる若手が多いんじゃないか、ホリ★モンとか」と言ったところ、「それはルサンチマンじゃなく、単に出世欲です」と反論されたが、わたくしは意味が分からなかったものだ。今は彼が何を言いたいのかよく分かる。太宰の書きぶりは、才能のない読者へのサービスであり、彼自身は反省で自分を包み込んではいなかった。高みを目指して流れるような思索があっただけなのである。流れる先に惨めな大衆や自分がいただけではなかろうか。

とはいえ、人間にはやはり心があると思う。