かやうにて、寺にも籠り、すべて例ならぬ所に、ただ使ふ人の限りしてあるこそ、甲斐なう覚ゆれ。なほ同じほどにて、一つ心に、をかしき事もにくきこともさまざまに言ひ合はせつべき人、かならず一人二人、あまたも誘はまほし。そのある人の中にも、口をしからぬもあれども、目馴れたるなるべし。男なども、さ思ふにこそあらめ。わざと尋ね呼びありくは。
正直申し上げて、神社は境内でのんびりしたいとは思わない。神が祀られているところが妙に仰々しくて近づき難いからである。むろん、そこに抽象的な形の紙とか何かとか、――何もない感じが恐ろしい。これに比べると、お寺は、仏像が楽しい。わたくしは「ごんぎつね」よりも一〇〇倍「かさこじぞう」が好きである。喋る動物は信用できないが、地蔵が動き出すのは信用できる。
『源氏物語』も『枕草子』も仏教なしには考えられぬ。源氏の守護神の住吉神社というのが不気味であるが――、たぶん当時も既に神社の方は何かよくわかんないものになっていたに違いないのだ。それは基本自然崇拝で、海も太陽も不安定で何が起こるか分からない。仏教の移入とはおそらく暴力的なものだったのであろうが、どうも、われわれの風土には、神道みたいなもんと何かを習合しなければならない事情がずっと存在しているような気がし、天皇が仏教徒だったのは必然だった気もするのである。平成の天皇にはどこかしら宗教的オーラがあったが、それは神道じゃなくてヒューマニズムのそれであり、――しかしそれでこそ彼らの行動としっくり来ていたところがあった気がする。ローマ皇帝がキリスト教を信仰したのと同じ事情がわれわれにもないであろうか。神格化というものには常に二重の神格が重なっているものだ。
以上は完全な妄想であるが、――それはともかくお寺は近代でもいろいろな舞台となった。
山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の悪寒を催した。
――漱石「門」
そういえば、わたくしは寺に一人で行ったことはほとんどない。確かにちょっとお寺は入るときに怖い。神社が入るのは簡単なのと好対照である。清少納言が「みんなで誘って楽しい寺参りっ」と言って居るのもそういう気持ちが一方であるのかもしれぬ。出家だって、「みんな出家するんだもん」というのが理由だろう。浄土思想だけでそんな簡単に行動を起こせるとは信じられぬ。