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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「様々なる衣装」を期待します

2020-01-17 23:20:45 | 文学
男も女も法師も、宮仕へ所などより、同じやうなる人諸共に、寺へ詣で、物へも行くに、好ましうこぼれ出で、用意よくいはばけしからず、あまり見苦しとも見つべくぞあるに、さるべき人の、馬にても車にても行きあひ、見ずなりぬる、いとくちをし。

わたくしはほとんど服装に興味がなかったが、最近、わたくしのような人たちが案外に増えている気がして、逆に工夫を凝らした服装に興味が出てきた。確かに、おしゃれな人というのはいるのである。

BEETHOVEN Concerto for Violin and Orchestra - Hilary Hahn, violin; Leonard Slatkin, conductor


ベートーベンのちょっといかめしいサウンドもこういう感じでおしゃれな衣装で演奏すると、まるでその「意味」が違って聞こえてくるから不思議である。

これからは小林秀雄に反して「様々なる衣装」の時代にすべきである。そのためには豊かになる必要があるのだが……。思うに、前世紀の前半に、全てが「労働者」であるといっていた時点ではまだその反抗的なポーズがおしゃれであった。しかし、その人間関係が本当に実現されてしまうと、衣装を統一することでいつまでもその統一を信じこまなくてはならなくなる。

私は主人に追われて店を出た。つくづく、うらめしい、気持であった。服装が悪かったのである。ちゃんとした服装さえしていたならば、私は主人からも多少は人格を認められ、店から追い出されるなんて恥辱は受けずにすんだのであろうに、と赤い着物を着た弁慶は夜の阿佐ヶ谷の街を猫背になって、とぼとぼと歩いた。私は今は、いいセルが一枚ほしい。何気なく着て歩ける衣服がほしい。けれども、衣服を買う事に於いては、極端に吝嗇な私は、これからもさまざまに衣服の事で苦労するのではないかと思う。
 宿題。国民服は、如何。


――太宰治「服装について」


戦時下では、国民服やナチスまがいの服を着て闊歩していた人がいたらしいが、その意識にはいろいろあったであろう。太宰が考えるよりもたぶん多くの人がいろいろな意識で国民服を着ていた。だから問題だったのである。

震災で被災した人の悲しみをメロドラマチックに語ることと、オウム事件に遭った人を差別すること(村上春樹参照)が全く同じ事であることに気づかない国民が何を着ようとも関係がない。単なる偶然というものに対する恐怖が問題だ。衣装も風景のなかで偶然の産物に見える場合がある。我々は、風景を写真で切り取ることに熱中しているが、これも偶然を排除したがる心性をつくるのを手伝っている。