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戦争が始まりそうになると、いつも坂口安吾の「戦争と一人の女」を思い出す。
これに薄を入れぬ、いみじうあやしと、人言ふめり。秋の野のおしなべたるをかしさは、薄こそあれ。穂先の蘇枋にいと濃きが、朝霧に濡れてうちなびきたるは、さばかりの物やはある。秋の果てぞ、いと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花の、かたもなく散りたるに、冬の末まで頭の白くおほどれたるも知らず、昔思ひいで顔に風になびきてかひろぎ立てる、人にこそいみじう似たれ。よそふる心ありて、それをしもこそ、あはれと思ふべけれ。
ススキを入れないのは、ススキが秋の末になると、老人のように白い髪を靡かせて立っているのがあわれに思われるから、であろうか。我々の人生は極めてゆっくりと進んでいる。ススキのようにすぐ枯れたりはしない。しかし清少納言はついススキに人間をみてしまうのである。彼女の見方はあまりにも人間を儚いものとみているのであろうか。そうではないと思う。
草の花はさまざまなものが褒められているが、花というのは案外長く咲いているものである。朝顔だって、夕方まで一応かなり撓垂れてはいるが完全に死んでいるわけではない。他の花なんかは結構長く咲いている。この長さが、清少納言たちにとって、美の保たれる時間である。 ――というより、よい状態の時間なのである。この長さと、適度に短いススキの一生は響き合っているような気がするわけである。
しかし果たして、我々の人生は、そんな感じなのであろうか。もっと細切れの時間がしつこく続いているのではないのか?
「戦争がすむと、あたしを追ひだすの?」
「俺が追ひだすのぢやなからうさ。戦争が厭応なしに追ひだしてしまふだらうな。命だつて、この頃の空襲の様子ぢや、あまり長持ちもしないやうな形勢だぜ」
戦争は花々と同じだ。結構長く咲き乱れて終わりがくる。「戦争と一人の女」でも、男が戦争の終わりまでと思って付き合っていた女を、戦争は終わっても放り出せない。もともと、戦争の終わりだってじりじりと引き延ばされていたのに応じて男も、時間を細かく刻んでいる。
「いつも一時的に亢奮し、感動する女なのである。」
これは、本当は女ではなく男の方なのだ。女は花街の女であり、そういう時間を生かされてきたことが、戦争の事態と相俟ってしまった。つまり主人公の男(戦争)とつきあい始めてしまった(「戦争と一人の女」である)。しかし、戦争のような細かく刻まれた時間は本当は今も続いている。戦争が終わったら、花よ蝶よ、の時代、かわいがれる青春が来るわけでなし、――花の時間ではなく、人生が続くだけであった。
一五年戦争に負けてから我々は、刻まれた時間しか知らず、――本当は清少納言みたいなのんびりした感じが欲しい、つまり花が欲しくなったりするのである。
ちょっとの火花なら花の時間みたいに感じられる。戦争はそうやって始まるのではないか。むろん、始まってしまったら我々の細かく刻まれた時間がもっと刻まれるだけである。