★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「にげなきもの」の基底感情

2020-01-03 23:35:32 | 文学


にげなきもの 下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるも、口惜し。月の明かきに屋形なき車のあひたる。また、さる車にあめ牛かけたる。また、老いたる女の腹高くてありく。若き男持ちたるだに見苦しきに、こと人のもとへいきたるとて腹立つよ。

にげなきもの(似合わないもの)なので、下衆の家と雪は――、下々の家と雪が似合っていないということに過ぎない。これを差別だと言うことは簡単だが、たぶん清少納言にとっては下衆と雪がどうしても心(意味)の響き合いをもたないのだ。いまだって雪の美的意味づけなんて、先行する文学作品や映画などの参照物なしにはありえない。「にげなきもの」――ここで物と心はお互いに反発し合っているに過ぎず、川端康成がやったように反発が解ければ、一気にそれが美的反照の関係に変化する。

中原中也の言葉を借りれば、「第一、事々に、真実と虚飾とを篩ひ分ける感情基底を失はずしてあることが既に問題なのである」が、中原はぶらぶらした方がいいのさ、と言っている。その点、清少納言はちょっくら下々の家にふらふらすることがなかっただけであろう。清少納言もまた、をかし、あはれ、にげなき、と断定を続けていることによって、「真実と虚飾とを篩ひ分ける感情基底」を持続させようと努力しているのである。下々の家にたどり着いたからと言って、真実と虚飾を篩い分けるのは誰にでも出来るわけではない。プロレタリア文学の数々の駄作がそれが物語っている。

難しいのは、その「真実と虚飾」が、倫理的要請ともなっていることである。だから清少納言には、牛車、老いたる女のあるべき姿が美的で倫理的なものとしてあらわれてしまう。ことは内観であったはずが、いつのまにか社会の話になってしまうのであった。我々は、むしろ美の箱庭に留まる勇気を持つ必要があるのだ。

ルッキズムの問題は簡単ではない。「破戒」以前の被差別を描いた小説で美的なものがどのような使われ方をしたか、渡部直己氏が昔論じていた。坂口安吾が克服しようとしていたのもそのあたりの問題である。

「すばらしい大自然よ」
 彼は改めて大きな感動で一パイだった。そして考古学の方はダメだったが、暗黒のホラ穴から美女を発掘したことに至上の満足を覚えたのだ。


――坂口安吾「発掘した美女」


たいがい、箱庭に留まろうとすると、清少納言ほどの感情を忘れ、美女単体とかがあらわれるのは皮肉な事態だが、坂口安吾がいいたいのは、大自然というのも大概「ホラ穴」みたいな暗黒であるということである。安吾は、そうやって自然を消してみせることによって、人間を「自然」と同等のような認識に置こうとする。そこで見えてきたのは、案外ポンチ絵のような姿であったが……

汗と髭――清少納言と三島由紀夫

2020-01-03 01:03:26 | 文学


七月ばかりに、風いたう吹きて、雨などさわがしき日、おほかたいとすずしければ、扇もうち忘れたるに、汗の香すこしかかへたる綿衣の薄きを、いとよく引き着て、晝寝したるこそをかしけれ。


秋の初めの昼寝は確かに気持ちがいい。夏は体内まで熱を籠もらせている感じなのでそれをはやく出してしまいたいと思うのである。汗の香りを含んでその熱が綿衣の薄さを通って、体を軽くする。扇の必死な風ではなく、初秋の風は、雨を含んでいても涼しい。それは昼寝する上の如き我々の体の状態のようであった。

最近、三島由紀夫の主演した「からっ風野郎」を見直したが、三島の演技というか増村保造の演出がちょっと変だと思うのは、三島の体が引き締まった鶏肉のようで少し乾いて見えることであった。太陽族の映画でももう少し汗のにおいがするような気がするが、この映画は妙に清潔であった。これは、たぶん、三島演じるヤクザがヤクザになりきれない小男だったからであるが、――考えてみると、ヤクザというものは生き方や準職業みたいな感じのカテゴリーに過ぎない以上、そんなものになりきれないのはみんなそうなのである。惚れた女のためにもヤクザをやめようとするその小男だが、過去にやったことの復讐は必ずやってくる。そこでやっと三島の額から汗が流れ落ちている。三島由紀夫というのは、さまざまな作品から、自分が文学者として生まれて育ってしまったが、本当は違うものなのではないかという呟きみたいなものを感じる。案外、この映画は三島由紀夫の本質をよく語っているのではないかと思うのである。

清少納言はおひるねが好きだったのかもしれないが、英雄になると、寝ていたら何をされるか分からない。三島由紀夫ともなるとそういう気分もあったのであろう。

 ある秋の一日、一匹の威張り屋のライオンが森の中で、お昼寝をしてゐる間に、大切な、日頃自慢のあごひげを、誰にとられたのか、それとも抜け落ちてしまつたのか、とにかく起きて、のどがかわいたので、水をのみに、ふらふらと川の方へ行く途中で熊に会ひますと熊は、ライオンをよく知つてゐるのに挨拶をしないので
「熊君、なぜ、挨拶をしない? 失敬じやないか」といつた時に熊は、やつと気がついて
「やあ、ライオン様でございましたか、昨日まで、お見受け致してゐた、あなたのあごひげがないので、ついお見それしたのです。御免下さい。」と答へましたので、ライオンは初めてひげがなくなつてゐることに気がついて、びつくりしたのです。そして大急ぎで、川へ行つて水に顔をうつして見ましたら、熊の言つたことはまつたく本当で、さつきまで、ピカピカ金のやうに、又ダイヤモンドのやうに光つてゐたあごひげがなくなつて、まるで自分の顔が馬鹿に見えるのでした。
 ライオンはどこへ落したのか一生懸命に考へましたが、考へつきません。そこへ一匹のきりぎりすが通りかかりました。きりぎりすは大変立派なひげを持つてゐるのです。ライオンは、それを見て、ひげのことなら、きりぎりすに聞いたら分るやうな気がしたものですから
「どこかに僕のあごひげが落ちてゐなかつたか。」と聞きました。するときりぎりすは申しました。
「ああ、それなら僕は知つてゐます。あの森の入口に、落ちてゐたのを見ましたよ。」
 ライオンは森の入口へ行きました。するとそこには、毛の生へたとうもろこしが落ちてゐるばかりで、ひげなどは落ちてゐませんでした。
 それから一ヶ月ばかりたつたある日、ライオンがある古道具やの前を通りかかりますと、夢にも忘れることの出来なかつた自分のあごひげが、売物になつてかかつてゐるのをみつけました。ライオンは、その家の主人のたぬきに、かみつきたい位腹が立ちましたが、自分のひげと言ふことが分ると困るので我慢して、いくらだと聞きますと、たぬきは、ライオンがひげを落して困つてゐることを聞いて知つてをりましたので、いつもいじめられてゐる腹いせに
「一万円より以下ではお売りできません。」といひました。ライオンは仕方なく一万円出して買つて来て、川へ行つて、くつつけやうと致しますと、もうすでに、新らしいのが生えてゐたのです。ライオンは大損をいたしました。

――村山壽子「ライオンの大損」


ライオンは確かに大損をしたので、読者は面白いに違いないが、本当はライオンのこの後が心配である。新しいのが生えたからといって、古い髭とは代替できるものではない。清少納言には髭は無さそうだが、三島由紀夫には髭がたくさん生えている。作品を残す度に多く生えている。それを自分で切り落とそうと、三島は髭が生え続ける男であった。