![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/20/53792601a9aef07359b4ef1050d14b87.jpg)
にげなきもの 下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるも、口惜し。月の明かきに屋形なき車のあひたる。また、さる車にあめ牛かけたる。また、老いたる女の腹高くてありく。若き男持ちたるだに見苦しきに、こと人のもとへいきたるとて腹立つよ。
にげなきもの(似合わないもの)なので、下衆の家と雪は――、下々の家と雪が似合っていないということに過ぎない。これを差別だと言うことは簡単だが、たぶん清少納言にとっては下衆と雪がどうしても心(意味)の響き合いをもたないのだ。いまだって雪の美的意味づけなんて、先行する文学作品や映画などの参照物なしにはありえない。「にげなきもの」――ここで物と心はお互いに反発し合っているに過ぎず、川端康成がやったように反発が解ければ、一気にそれが美的反照の関係に変化する。
中原中也の言葉を借りれば、「第一、事々に、真実と虚飾とを篩ひ分ける感情基底を失はずしてあることが既に問題なのである」が、中原はぶらぶらした方がいいのさ、と言っている。その点、清少納言はちょっくら下々の家にふらふらすることがなかっただけであろう。清少納言もまた、をかし、あはれ、にげなき、と断定を続けていることによって、「真実と虚飾とを篩ひ分ける感情基底」を持続させようと努力しているのである。下々の家にたどり着いたからと言って、真実と虚飾を篩い分けるのは誰にでも出来るわけではない。プロレタリア文学の数々の駄作がそれが物語っている。
難しいのは、その「真実と虚飾」が、倫理的要請ともなっていることである。だから清少納言には、牛車、老いたる女のあるべき姿が美的で倫理的なものとしてあらわれてしまう。ことは内観であったはずが、いつのまにか社会の話になってしまうのであった。我々は、むしろ美の箱庭に留まる勇気を持つ必要があるのだ。
ルッキズムの問題は簡単ではない。「破戒」以前の被差別を描いた小説で美的なものがどのような使われ方をしたか、渡部直己氏が昔論じていた。坂口安吾が克服しようとしていたのもそのあたりの問題である。
「すばらしい大自然よ」
彼は改めて大きな感動で一パイだった。そして考古学の方はダメだったが、暗黒のホラ穴から美女を発掘したことに至上の満足を覚えたのだ。
――坂口安吾「発掘した美女」
たいがい、箱庭に留まろうとすると、清少納言ほどの感情を忘れ、美女単体とかがあらわれるのは皮肉な事態だが、坂口安吾がいいたいのは、大自然というのも大概「ホラ穴」みたいな暗黒であるということである。安吾は、そうやって自然を消してみせることによって、人間を「自然」と同等のような認識に置こうとする。そこで見えてきたのは、案外ポンチ絵のような姿であったが……