同じ所に住む人の、かたみに恥ぢかはし、いささかのひまなく用意したりと思ふが、つひに見えぬこそかたけれ。
「ありがたきもの」の段は、舅に褒められる婿とか、姑にかわいがられる嫁とかいうありふれたものから入るのだが、「毛のよく抜くるしろがねの毛抜き」というのが登場して、面白くなる。婿とか嫁は毛抜きレベルのモノなのだった。とはいえ、さしあたり、このままだと「なんでも鑑定団」みたいな趣向になってしまいそうなので、主人の悪口を言わない従者とか、癖がない人という具体物に戻る。次いで、世間をわたってゆくときに「いささかのきずなき」人というのがでてきて、続くのが上の部分である。おたがいに「恥かわす」(尊敬しあう)間柄で、少しの隙もなく気をつけていると思う人で、隙を見られないという人は非常に稀なのだ。
確かに、隙がないぜ、と思っている人でも隙はある。むしろ、そういう隙こそがトラブルの原因である。これは意識でどうにかなるものではない動かし難いレベルの真理なのである。清少納言が、
物語、集など書き写すに、本に墨つけぬ。よき草子などはいみじう心して書けど、必ずこそ汚げになるめれ
こう書いているのはそのせいである。同じ場所の人間関係というのは、本を写すとき、元の本に墨をつけないようなレベルで困難なのだ。清少納言はつねに人間関係を毛抜きとか筆とかの物体を動かす際の感覚で捉えている。これはすばらしいことではなかろうか。世のコミュニケーション主義者は、コミュニケーションを言葉の操作だと思っている。しかしむしろそれは物質的な操作なのである。しかし、まあ清少納言が言っているのは、閉ざされた安定した空間での話で、その点が暢気なものといえばそうなんだが……。
今年の九月、これ迄省みないでゐた荷を片附けて居ると、彼のケンリユウ小筆が、虫に食はれ、羊毛のところがすっかり無くなつて、まる坊主になつて出て来た。ナフタリンの気が無くなつた状態につけ込んで、虫の奴が攻勢に出たものと見える。空襲にも助かつたこの小筆が、一夜のうち(多分さうだらう)に一昆虫のために、坊主にされてしまつた。
――斎藤茂吉「筆」
若い頃中国から買ってきた筆をいつか使ってやろうとしまっておいた。戦争などがおわったある日のぞいてみたら、虫に食われていた。コミュニケーションもこういう風に、不能に陥ることが屡々だ。