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「かたらいたきもの」の段は、清少納言の一番いいところがでている。今日はある集まりで、清少納言はやっぱり感情労働の達人じゃないかと言ってしまったが、――悪口というものは、相手を不快にさせる可能性もあるがそうでないことも大いにあり、言った本人も気持ちがいいし……ということがあり得るのだ。しかし、思うに、このような悪口が有効なのは、言った本人がクズでない場合に限る。一から十まで殆どが間違っている我々であるから、もはやそれはありえない。
しかし、褒めればよいというものではない。褒められた方がやる気がでるとか、訓練をうけたわけでもないのに、教育、いや支援の方法をそれっぽくやるようになってから、我々は日常のコミュニケーションまで感情労働にしてしまったのであった。かくして、悪口以外、本心を表現するのが難しくなってしまったのである。
今日のあるニュース番組は、ゲームの時間制限を含む条例に関するニュースであり得ん擁護をしていたが――最近のニュースはほぼ取材(つまり事象の研究だ)をやる気がまったくなく、お上が決めようとすることには意味がありそうだとかいう幼稚園生でも間違いだと分かりそうなことを前提にしている。前回の戦争の時もそうであったがほとんどの人間は面従腹背すらやっていない。世の中には、証拠を示さなくても明白なことがあるが、これもその一つであろう。
かたはらいたきもの、よくも音弾きとどめぬ琴を、よくも調べで、心の限り弾きたてたる。
「心の限り」という言い方がキツイが、本当は「心の限り」なんて状態ではないからお笑いなのだ。
客人などに会ひてもの言ふに、奥の方にうちとけ言など言ふを、えは制せで聞く心地。
まあ逆に客人に無理に遠慮のない話をして「奧」の人たちに聴かせているクズもいるのであるが……
思ふ人のいたく酔ひて、同じことしたる。
確かに……。これは分かる……。
聞きゐたりけるを知らで、人のうへ言ひたる。それは、何ばかりの人ならねど、使ふ人などだにいとかたはらいたし。
まあ帝とか中宮が言っても許されたんだろうけれども……。
旅立ちたる所にて、下衆どものざれゐたる。
確かに、旅の先の騒ぎ方でその人のレベルを測っていいと思うね。その恐ろしさを知っている人は、そもそもあまり旅に出ないんだよ……
にくげなるちごを、おのが心地のかなしきままに、うつくしみ、かなしがり、これが声のままに、言ひたることなど語りたる。
誰かも言っていたが、親になることは子どもを無条件に褒めるみたいな「論外」の境地に墜ちることでもあって、それが社会に広がっていくと大変なことになる。昔の左翼にあった弱者救済ですらないのだ、単に正義やまともさが失われるのである。
才ある人の前にて、才なき人の、ものおぼえ声に、人の名など言ひたる。
わたくしも気をつけなければ……。むかしから、やたらベンヤミンとかハイデガー言うやつは大概こういうやつであって……。最近のわたくしはすぐ宣長とか言っているのであるが、いまいち「おっ」という感じで人が感じてくれない。残念である。
ことによしともおぼえぬわが歌を、人に語りて、人のほめなどしたるよし言ふも、かたはらいたし。
この人種が絶えないというのは我が国のあり方に関係しているのであろう。別にそういうひとがいてもいいのだ。問題は、そういう人が地位を得てしまうことなのである。そうなると、我々はいつも「をかし」「あはれ」みたいな言葉で身を守らなくてはならなくなるのである。そして時々「かたはらいたきもの」を語って溜飲を下げる。わたくしのいつもの文章なんかもその一種である。