
「遠江の浜柳」と言ひかはしてあるに、若き人々は、ただ言ひに見苦しきことどもなどつくろはず言ふに、「この君こそ、うたて見えにくけれ。異人のやうに歌うたひ興じなどもせず、けすさまじ」など、そしる。
さらにこれかれに物言ひなどもせず、「まろは、目は縦さまに付き、眉は額さまに生ひあがり、鼻は横さまなりとも、ただ口つき愛敬づき、おとがひの下、頸きよげに、声にくからざらむ人のみなむ、思はしかるべき。とは言ひながら、なほ、顔いとにくげならむ人は、心憂し」とのみ、のたまへば、まして、おとがひ細う、愛敬おくれたる人などは、あいなくかたきにして、御前にさへぞ、あしざまに啓する。
頭の弁(藤原行成)は清少納言と仲がよかったらしい。文学好きの女の子は色っぽい人が多いと思うが、その色っぽさというのは歳をとっていた場合には別の色っぽさに変わっているだけであり、要するに、それだけのオーラが文学好きには纏わり付いているわけである。男女に友情が成立するのかというバカみたいな質問があるが、教養ある男女の場合は、まあそういう風なものはあり得る。というより、教養ある男女の場合は、その色による楽しみ方があるだけのことである。
清少納言と行成の挿話は、この事情をよく伝えているような気がする。行成の「まろは、目は縦さまに付き、眉は額さまに生ひあがり、鼻は横さまなりとも、ただ口つき愛敬づき、おとがひの下、頸きよげに、声にくからざらむ人のみなむ、思はしかるべき。とは言ひながら、なほ、顔いとにくげならむ人は、心憂し」というのは、それを証するための狼煙である。「顔のパーツが妙なかたちに付いていても、口の格好が愛嬌があって声が憎らしくない人だけが好きです。とはいえ、顔がだめなのはいやだね」という発言を一部だけ切り取って、口の格好が愛嬌がない者などが中宮に悪口を言ったりするやつがいる。ここは笑うところなのに、というわけだ。
だめ押しに、このあと、清少納言が寝起きの顔を見られる事件が描かれている。むろん寝起きの顔を見られたのはいやなんだが、そんなこたあどうでもいいことも事実なのである。だからといって、彼らが醜いものを好まないのは自明である。
こういうやりとりで遊べなくなると、顔が悪い(良い)といってみんなでのその人を虐めたり、逆に精神の繋がりだけが大事だと言いながらハンサムな革命家を愛でたりということになる。
顔は誰でもごまかせない。顔ほど正直な看板はない。顔をまる出しにして往来を歩いている事であるから、人は一切のごまかしを観念してしまうより外ない。いくら化けたつもりでも化ければ化けるほど、うまく化けたという事が見えるだけである。一切合切投げ出してしまうのが一番だ。それが一番美しい。顔ほど微妙に其人の内面を語るものはない。
――高村光太郎「顔」
高村光太郎は、このエッセイの最後で、「顔の事を考えると神様の前へ立つようで恐ろしくもあり又一切自分を投出してしまうより為方のない心安さも感じられる。」と言っているが、考えてみると恐ろしい結論にたどり着いている。いまなら顔認証で人格を判断するAIが開発されかねない。
我々は価値?を社会的に判断している。それは神や社会に従うことでも、自分の主観に忠実になることでもなく、行成のような発言を笑ってそれ以上一般化しないことによって価値付け?がされるのである。「ひとそれぞれ」なのでそれが肯定されるべき、なのではない。価値ではなく文化の方が基底的であるべきである。そうではないと価値が人を裁く状態になってしまうのである。