★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

幻影としての予言

2021-03-02 23:35:06 | 文学


正成悦て則是を披覧するに、不思議の記文一段あり。其文に云、当人王九十五代。天下一乱而主不安。此時東魚来呑四海。日没西天三百七十余箇日。西鳥来食東魚を。其後海内帰一三年。如獼猴者掠天下三十余年。大凶変帰一元。云云。正成不思議に覚へて、能々思案して此文を考るに、先帝既に人王の始より九十五代に当り給へり。「天下一度乱て主不安」とあるは是此時なるべし。「東魚来て呑四海」とは逆臣相摸入道の一類なるべし。「西鳥食東魚を」とあるは関東を滅す人可有。「日没西天に」とは、先帝隠岐国へ被遷させ給ふ事なるべし。「三百七十余箇日」とは、明年の春の比此君隠岐国より還幸成て、再び帝位に即かせ可給事なるべしと、文の心を明に勘に、天下の反覆久しからじと憑敷覚ければ、金作の太刀一振此老僧に与へて、此書をば本の秘府に納させけり。

聖徳太子が書いたらしい「未来記」を見た正成の目には奇妙な文字の羅列が映った。九十五代後醍醐天皇の時代にその地位が安泰でなくなるところまでは分かる。しかし、それからは東の魚が四海を飲むとか西の鳥が東の魚を食うとか……。聖徳太子に限らず、予言の書というのは、なぜかくも突然動物の世界に切り替わるのであろうか。全然予言ではなく、動物園に来たみたいではないか。我々も、しばしば動物を見ていると、我々の未来が見えることがある。彼らは我々よりも大概はやく死んでゆくからだ。彼らの一生は、我々のそれを早送りしている。我々は我々の未来をみて安心する。苦しみもいずれは終わるのである、と。

しかし、本当は聖徳太子は、本当に魚や鳥の夢、猿が我々の世界を跋扈する夢を見ていただけではなかろうか。

この前、チャウシンチー監督の「西遊記 はじまりのはじまり」というコメディを見たが、怪魚とかただの巨大猪とかが少林サッカーのノリで大暴れしており、とても楽しい映画であった。対して、楠正成は、折角の太子の西遊記まがいの夢を、比喩としてうけとり、無理な後醍醐天皇の復位にむかって燃えるのである。

だいたい、我々は戦争を人間のドラマとして考えすぎているのではないか。アメリカをみよ、どうみても、人間の戦争という観念はもうとっくに我々と闘っているころからやめている。我々は、「桃太郎 海の神兵」あたりでそれに気付いたのであるが、四海を食う魚(原子爆弾)とかを考える未来記の思考にはかなわない。むろん日本でも「未来記」は明治以来多く書かれてきたのだが、その荒唐無稽さを意識しすぎた結果、現実に帰りすぎた気がする。

第五の見慣れぬ旅人 頓死したものとも思える。
第四の見慣れぬ旅人 よくあることだ。
第六の見慣れぬ旅人 また、今夜も夢見がよくない。
第五の見慣れぬ旅人 夜が、長くなった。
第七の見慣れぬ旅人 この旅人を葬ってやりたいものだ。
(旅人の一群は倒れたる歌うたいを取り巻いて暫時思いに沈む。この時、日の沈んだと反対の地平線から、赤い月が上った。その色は地震があるか、風が出るか、悪いことのある前兆と見えて、頭痛のするように悩ましげな赤い不安な色であった。)
第五の見慣れぬ旅人 あの、月の色を見い。
第四、第五の見慣れぬ旅人 あの、月の色は……。
(一同月の方を振向いて不安の思いに眉を顰む……沈黙……。)


――小川未明「日没の幻影」


我々の先祖たちは、何回このような風景を見てきたのであろう?それは――、科学でもなく、想像でもない、幻影である。