由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申しけるは、城中の兵ども数日の疲れによつて今は矢の一つをもはかばかしくつかまつり候はぬあひだ敵すでに一二の木戸を破つて攻め近付いて候ふなりいかにおもしめすとも叶ふべからず春宮をば小舟にめさせまゐらせいづくの浦へも落しまゐらせ候ふべし自余の人々は一所に集まつて御自害あるべしとこそ存じ候へその程はわれ等攻め口へまかり向つて相支へ候ふべし見苦しからん物どもをば皆海へ入れさせられ候へ、と申して御前を立ちけるが、あまりに疲れて足も快く立たざりければ二の木戸の脇に射殺され伏したる死人の股の肉を切つて二十余人の兵ども一口づつ食うて、これを力にしてぞ戦ひける。河野備後守は搦手より攻め入る敵を支へて半時ばかり戦ひけるが今ははや精力尽きて深手あまた負ひければ攻め口を一足も引き退かず三十二人腹切つて同じ枕にぞ臥したりける。
「ひかりごけ」や「海神丸」、「野火」をひくまでもなく、我々の先祖たちは人肉を食べることがあった。近代の作品でもそうだったと思うが、それは、整斉な口調を以て描かれる。「一口づつ食うて、これを力にしてぞ戦ひける」である。このリズムは、このあとの「一足も引き退かず三十二人腹切つて同じ枕にぞ臥したりける」にも通じている。
なんとなく、傍観者的である。
死人の頭を黒焼にして服すると、病気に利くと云う迷信も近年まで行われていた。俗にこれを「天印」と云い黒焼屋で密売し、それが発覚して疑獄を起したこともある。または屍体を焼くときこれに饅頭を持たせ、屍脂の沁み込んだのを食うと治病するとて、同じく処罰された迷信家もあった。明治四十年頃のことと記憶しているが、大阪の火葬場の熅坊がこの種の犯罪を重ね、大騒動になったことがある。さらに極端な迷信家になると屍体を焼くとき脂をとり、飲むやからさえあったと当時の新聞に載せてあった。まだこの外に人胆を入れた売薬があるなどと云われているが、そうなると民俗でなくして全くの迷信となるので、省略する(春風秋雨亭主人談)。
――中山太郎「屍体と民俗」
思うに、もともと薬というのはなにか「死」を思わせるところがあったに違いない。死を飲んで乗り越えることが健康である。いまは、薬はたいがい白っぽい。健康を保つ、あいかわらず死を傍観している。