総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。
太平記のクライマックスのひとつである、北条一門の集団自決の場面である。こんな場面をよむと、日本はこれまでの怨霊の量でよく集団発狂しないよなと思う。我々は、死者を成仏させる、――つまり生き残った者の自意識をなんとか収めることにかけては天才的に持続的である。
今日は震災十年目なのでいろいろと追悼の行事みたいなものが行われていたようだ。
生き残った者達もいろいろな者がおるにも関わらず、誰も彼も追悼すりゃいいのかもしれないが、恨みをのんで死んでいったものたちはどうすればよいのであろう。太平記や平家物語では、必ず因果応報があり、生き残った者はただでは済まないのだ。現代では、その応報のシステムが働いていない。これはあまりよくないのではなかろうか。人間の心はそんな良心的に怠惰に出来ているであろうか?
「畜生たちをだ。あわれ、ほんとの畜生たちをつい忘れておった。この有様では、鳥合ヶ原の犬小屋も火の雨をまぬがれえまい。かしこの犬小屋には、高時を慰めてくれた高時の愛犬何百匹が、檻をも出られず、餌のくれてもなく、哭き悲しんでいることだろう。犬小屋の錠を破って、犬どもをみな放してやれ。新右衛門、すぐ行って、放してやれ」
それを言い終ると、高時は黄金づくりの小刀を解いて、楯の死の座に、あぐらをくんだ。
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「ごゆるりと遊ばしませ。敵を山門内に見るには、まだ間がございましょう。……オオ死出の道、お淋しそうな。むつらの御方、お妻のお局、常葉の君も、みな私に倣って、太守のおそばにいてさしあげたがよい」
花の輪が、高時をかこんだ。彼女らはそれぞれ泣き乱してはいたが、この期となると、一人も泣いていなかった。春渓尼の唇から洩れる名号の称えに和しながらみな掌を合わせた。
するとその中のまだ十六、七にすぎぬ百合殿の小女房が「皆さま、おさきに!」と、まっ先に刃でのどを突いて俯っ伏した。その鮮紅に急かれて、高時もがくと頸を落し、そして脇腹の短刀を引き廻しながら、
「尼前……。これでいいか。高時、こういたしましたと、母御前へ、おつたえしてくれよ。よう、おわびしてくれよ」
と、かすかな息で言った。
たちどころに、春渓尼のまわりは、すべて紅になった。高時に殉じて次々に自害して行った局たちは血の池に咲いた睡蓮みたいに、血のなかに浮いた。
――「私本太平記」
最後の「睡蓮みたいに」というところがちょっと間が抜けたが、吉川英治は、こういう怖ろしい場面になると根がサイコなのか頑張ってしまう。わたくしは、こういう気分が全く分からないが、推測は出来る。十分あり得る話なのである。吉川英治は「死なずともよい工匠たちの死体も中には見られたとか。」と、太平記の記述にはない部分を伝聞として語っている。伝聞であるから、この集団自殺をみていた周りの人間たちの意識に吉川英治の推測は延びている。彼らと集団自殺を遂げた人間たちの意識の幅のなかから、集団自殺に進む虚実曖昧なラインを炙り出そうとしているわけである。吉川英治が考えたのは、女たちと血の池の睡蓮みたいな美の高みと、犬畜生をかわいがる優しさのなかにそれをみるみたいなことかもしれない。
吉川英治が考えるよりも、事態は簡単かも知れない。悪意をもった嬲り殺され方よりも自分で死を選ぶというというのはあり得ることだ。