★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

兼好という遁世者をめぐって

2021-03-28 22:56:08 | 文学


侍従帰りて、「かくこそ」と語りければ、武蔵守いと心を空に成して、「たび重ならば情けに弱ることもこそあれ、文をやりてみばや」とて、兼好と言ひける能書の遁世者をよび寄せて、紅葉襲の薄様の、取る手も燻ゆるばかりに焦がれたるに、言葉を尽くしてぞ聞こえける。返事遅しと待つところに、使い帰り来て、「御文をば手に取りながら、あけてだに見たまはず、庭に捨てられたるを、人目かけじと、懐に入れ帰りまゐつて候ひぬる」と語りければ、師直大きに気を損じて、「いやいや物の用に立たぬものは手書きなりけり。今日よりその兼好法師、これへ寄すべからず」とぞ怒りける。


高師直が塩治高貞の北の方に横恋慕する場面で、T大の入試に出てたきがする。ほんとこんなくだらないことで評価を下げられた兼好も踏んだり蹴ったりである。いつもお偉方というのは人間でなくなっている。兼好がダメだというのはまだわからないではないが、書家というのはダメダというのがいかん。いまだったら、「是だから女は」みたいなもんだ。

人間は、こんな決めつけはしばしばやるものだが、長い時間をかけて認識が修正されてゆくものだ。それが出来なくなっている方が問題なのだ。我々が持つ転回や回心のドラマが戦時下の「転向」みたいなものになりはてているということだ。転向は認識の発見であり、くるっと一回転して反対側に寝返ることではない。

ここでも問題なのはそのクズ転向が「役に立たぬ」という理由で成り立っているということである。

 思うに、小林秀雄も政治家にはならないタチの教育宗教型の詩人であるが、然し彼は、琵琶法師や遊吟詩人となって一生を終ろうとする茶気はなく、さしずめ遁世して兼好法師となるところが、僕と大いに違っているのだろうと考える。
 似て、似きれない、そういう違いが、教祖の文学というものを書かせたのだろう。


――坂口安吾「後記にかえて」


ほんとうは、高師直は兼好法師を書家として呼んだために書家と呼んでいるだけで、ホントは腐れ儒者とでもいいたかったのかもしれない。思うに、学者でも、象牙の塔に隠遁しきれない連中が教祖になりたがり、パワハラを繰り返している。