主上苦しげなる御息を吐かせ給ひて、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、これ如来の金言にして、平生朕が心に有ありし事なれば、秦の穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一つも朕が心に取らず。ただ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉く亡ぼして、四海を令泰平と思ふ計りなり。朕則ち早世の後は、第七の宮を天子の位に即け奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行ひなくば、股肱の臣として天下を鎮むべし。思之故に、玉骨はたとひ南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。もし命めいを背き義を軽んぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ」と、委細に綸言を残されて、左の御手に法華経の五の巻を持たせ給ひ、右の御手には御剣を按じて、八月十六日の丑の剋に、遂に崩御成りにけり。
もし、これが昭和20年だったとしたらどうなっていたことであろう。西田幾多郎は、六月七日に死んでいる。旧帝国に殉死しているようにも言われているが(違うか)、少しずれているからいいのだ。明治天皇は、殉死した人間がいることによって、彼も明治時代に殉死したみたいになっている。しかし昭和は、昭和天皇の死によっては全く終わらず、むしろいまでも終わっていない。平成や令和は、昭和のアナザーワールドのような気がする。
考えてみると、後醍醐天皇の死も、何かの死を意味しなかったのであろう。