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「去んぬる元弘の乱の始め、高氏御方に参ぜしに依つて、天下の士卒皆官軍に属して、勝つ事を一時に決し候ひき。しかれば今一統の御代、偏へに高氏が武功と可云。そもそも征夷将軍の任は、代々源平の輩功に依つて、その位に居する例不可勝計。この一事殊に為朝為家、望み深きところなり。次には乱を鎮め治を致す以謀、士卒有功時節に、賞を行ふにしくはなし。もし註進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば、挙達道遠くして、忠戦の輩勇みを不可成。然れば暫く東八箇国の官領を被許、直に軍勢の恩賞を執り行ふ様に、勅裁を被成下、夜を日に継いで罷り下つて、朝敵を退治仕るべきにて候ふ。もしこの両条勅許を蒙らずんば、関東征罰の事、可被仰付他人候ふ」とぞ被申ける。
高氏は、天皇の名前の「尊治」から一文字拝借して「尊氏」となったのは有名な話であるが、――こういう例を見ると、ようするに、我が国では下々というのはかなり本質的に傲慢であり、天皇を何らかの観念とか理念みたいなものとして尊崇している訳ではない気がするのであった。尊氏は名前まで強奪したが、普通は恩賞である。
いまもそうであるが、とにかく恩賞を要求する人は多い。いまはインセンティブとかいわれているが、――なかには良心が残っている者もいるとはいえ、自らの労働を最小限にして人に押しつけることを考えている人に限って恩賞を要求する。労働者の権利は要求すべきだが、その残酷さを看過するわけにはゆかぬ。我々が恩賞ほしさに、人なんか簡単に殺すということを「太平記」を始めとして様々な作品が示している。
要するに、我が国の天皇制とは、本質的に、働いてやるから何かクレという精神をさもしく見せないためのシステムである。それから遁れるためには、権力そのものの中に、無風状態にいるほかはない気もしてくる。平安朝の文学を瞥見すると、それはそれで非常にしんどいもののようだが…。
『太平記』の記者は、
「日来武に誇り、本所を無する権門高家の武士共いつしか諸庭奉公人と成、或は軽軒香車の後に走り、或は青侍格勤の前に跪く。世の盛衰、時の転変、歎ずるに叶はぬ習とは知りながら、今の如くにして公家一統の天下ならば、諸国の地頭御家人は皆雑人の如くにてあるべし」
と、その当時武士の実状を述べて居る。
其の上、多くの武士には恩賞上の不満があった。彼等の忠勤は元来、恩賞目当てである。亦朝廷でも、それを予約して味方に引き入れたのが多いのである。云わば約束手形が沢山出されていたのである。
後醍醐天皇が伯耆船上山に御還幸の時、名和長重は「古より今に至るまで、人々の望む所は名と利の二也」と放言して、官軍に加ったことが『太平記』に見える。其の真疑はとにかく、先ず普通の地方武士など大体こんな調子であろう。伝うる所によれば、諸国から恩賞を請うて入洛し、万里小路坊門の恩賞局に殺到する武士の数は、引きも切らなかったと言う。だから充分なる恩賞に均霑し得ない場合、彼等の間に、不平不満の声の起きるのは当然である。
――菊池寛「四条畷の戦」
「均霑」なんて言葉はいまはあまり使わんね……。とはいえ、菊池寛はこういう平たい真実をわかりきっていながら、――というより、わかりすぎているために、恩賞なんかどうでもいい人間のことが分からなくなっていったのではなかろうか。