―此比殊に時を得て、栄耀人の目を驚しける佐々木佐渡判官入道々誉が一族若党共、例のばさらに風流を尽して、西郊東山の小鷹狩して帰りけるが、妙法院の御前を打過るとて、跡にさがりたる下部共に、南底の紅葉の枝をぞ折せける。時節門主御簾の内よりも、暮なんとする秋の気色を御覧ぜられて、「霜葉紅於二月花なり。」と、風詠閑吟して興ぜさせ給けるが、色殊なる紅葉の下枝を、不得心なる下部共が引折りけるを御覧ぜられて、「人やある、あれ制せよ。」と仰られける間、坊官一人庭に立出て、「誰なれば御所中の紅葉をばさやうに折ぞ。」と制しけれ共、敢て不承引。「結句御所とは何ぞ。かたはらいたの言や。」なんど嘲哢して、弥尚大なる枝をぞ引折りける。折節御門徒の山法師、あまた宿直して候けるが、「悪ひ奴原が狼籍哉。」とて、持たる紅葉の枝を奪取、散々に打擲して門より外へ追出す。―道誉聞之、「何なる門主にてもをわせよ、此比道誉が内の者に向て、左様の事翔ん者は覚ぬ物を。」と忿て、自ら三百余騎の勢を率し、妙法院の御所へ押寄て、則火をぞ懸たりける。折節風烈く吹て、余煙十方に覆ければ、建仁寺の輪蔵・開山堂・並塔頭・瑞光菴同時に皆焼上る。
古典の世界は、形容としての「風流」があって、中学生のコロからなんとなくいやな感じがしていたが、こういう場面を知っていたからかも知れない。乱暴者が気取るのが「風流」のような気がしたからだ。いまだって、やたらかっこをつけているような人間が、桜を愛でたりしていて、ほんとくだらない。
どうも風流さが、我が国では乱暴者によってある種の変形を遂げているのであって、――これは、曹操が詩をたしなんだのとは少し違うのではないか。ようするに、日本の乱暴者のヘタレ感に関わっているのである。
日本のサブカルチャーには、乱暴者をなにか改革者として持ち上げる傾向があるが、これは、所謂「セカイ系」などというものの卑小さにも影響を与えている。大概の主人公の垂れ流す叙情性があまりにも陳腐で驚かされるが、こんな叙情性で世界について悩んでいても意味はない。何か、日本のオタクコミュニティが不全感でなやみ、現実かフィクションかみたいな小学生みたいなところでうろうろしているのは、その「世界観」とやらが桜がキレイだな+怒ったので放火しようみたいな陳腐な二項対立に立脚しているからである。上の太平記もそんな感じがする。なぜ、キレイだと思うのか、なぜ自分は怒るのかという考察が全くないのだ。あるときもあるが、それはマザコンやファザコンといった理由で、――ぐずっているのと何処が違うのだ、それ。
子供の頃、彼の家には烈しい気性の祖母がいた。何か悪いこと、余計なこと、いたずらに類することをすると、たいへんな勢いで怒り、火箸や長煙管で彼を打擲し、折檻した。
「せですむことを!」
「せですむことをして」
しないですむことをする、という意味である。その言葉は彼の体に深くしみ入って、時々舌にのぼって来る。
――梅崎春生「記憶」
考えてみると、この祖母も案外功利主義的なことを言っている。――つまり、役に立つみたいな観点が叙情を貧困にしているのではないか、と思うのである。改革者は常に功利性をたてにしてやってくる。