諸軍勢是を見て、「すはや将軍こそ御舟に被召て落させ給へ。」とのゝめき立て、取物も取不敢、乗をくれじとあはて騒ぐ。舟は僅に三百余艘也。乗んとする人は二十万騎に余れり。一艘に二千人許こみ乗ける間、大船一艘乗沈めて、一人も不残失にけり。自余の舟共是を見て、さのみは人を乗せじと纜を解て差出す。乗殿れたる兵共、物具衣裳を脱捨て、遥の澳に游出で、舟に取著んとすれば、太刀・長刀にて切殺し、櫓かいにて打落す。乗得ずして渚に帰る者は、徒に自害をして礒越す波に漂へり。尊氏卿は福原の京をさへ被追落て、長汀の月に心を傷しめ、曲浦の波に袖を濡して、心づくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功を高して、数万の降人を召具し、天下の士卒に将として花の都に帰給ふ。憂喜忽に相替て、うつゝもさながら夢の如くの世に成けり。
最後に語り手は良いこと言ったとおもう。「憂喜忽に相替て、うつゝもさながら夢の如くの世に成けり」と。憂いと喜びが交代すると現実感が崩壊し、現実が夢のように感じられる世の中になってしまったのである。現実感というのは、憂う人と喜ぶ人が対照的に存在して動かないことだと言っているようなものだ。
これは怖ろしい考えだ。喜ぶ人は常に喜び、憂う人は常に憂う世の中が「現実」だというのである。感情の配分化・固定化……。異常な世界だが、しかし、こういう残酷さは我々の中には巣くっている。
私は、大学生の頃、古典文学好きの学生(←雑な括りだが)に、上のような残酷さがあるような気がしていた。近代は常に、喜びと憂いがアンヴィヴァレンツみたいに存在している。しかし古典の世界は、つねに固定化に続く、交代による固定化の傾向がある気がするのだ。全くの印象論である。仏教が二元的な思想であることも関係あるかもしれない。わたくしは、そこに儒教の建前としての一元性が加わって、裏の腐敗が進んで近代を用意したのではないかとさえ思ったことがある。いまは、それすら崩れて、宗教的な二元性が復活してきている。
生活に追い立てられて旅に出た次兵衛が、纔に温まった懐をおさえて、九州の青年の多くが、その青雲を志し成功を夢みて、奔流する水道を、白波たつ波頭を蹴散らし蹴散らし、いささかのセンチを目に浮べて、悲喜交々、闘志を抱いて渡る関門の海峡を、逆に白波を追っていた連絡船の中で、夢野久作の正体を発見したのである。
「オオ、ジッちゃんじゃないか、此頃あたしゃ、こげえなこと、しよりますやなァ」と、額から鼻、鼻から頤まで暫くある、名代の顔に、恥い乍らも誇をひそめて、眼を細くし乍ら、長いことにおいては又久作さんと負けず劣らずの馬面で共に有名な、チョビ髭の尖った頤との一対の対面は世にも見事であったろう。その馬面に突きつけられた雑誌が、此れまでサンザ首をひねらせた新青年の夢野久作ものするところの、あの古博多の川端――筆者の産れた――あたりと櫛田神社の絵馬堂を織り込ンだ『押絵の奇蹟』だったのである。
久作さんはかくして名探偵作家として突然にも、夢の如く現れて来たのであった。
――青柳喜兵衛「夢の如く出現した彼 夢野久作氏を悼む」
近代の場合、現実感を変えてしまうのは優秀な作品そのもので、作家である、――筈であった。たぶん、戦争が全てを壊してしまい、我々をじりじりと中世に戻してしまったのである。人間が現実を変えるのではなく、事件が変えるしかないのだ、という諦念は我々にとっては非常に痛かった。今度は、人間の集団そのものを二元的に捉えるようになるぞ。知らんぞ……。