其中に足利治部大輔高氏は、所労の事有て、起居未快けるを、又上洛の其数に入て、催促度々に及べり。足利殿此事に依て、心中に被憤思けるは、「我父の喪に居て三月を過ざれば、非歎の涙未乾、又病気身を侵して負薪の憂未休処に、征罰の役に随へて、被相催事こそ遺恨なれ。時移り事変じて貴賎雖易位、彼は北条四郎時政が末孫也。人臣に下て年久し。我は源家累葉の族也。王氏を出て不遠。此理を知ならば、一度は君臣の儀をも可存に、是までの沙汰に及事、偏に身の不肖による故也。所詮重て尚上洛の催促を加る程ならば、一家を尽して上洛し、先帝の御方に参て六波羅を責落して、家の安否を可定者を。」と心中に被思立けるをば、人更に知事無りけり。
昨日、宇佐見りん氏の「かか」を読み直したが、北杜夫と中上健次が合体したような非常に難度の高いことを論理的に組み立てていてさすがであった。中上健次が、肉体に拘りながら一方でオカルトに近いような感覚を持ち合わせていて、そのアンヴィヴァレンツが天皇とか信仰の問題を案外学的に追究する姿勢をとらせていたと思う。だから、かわからないが、作中ではそれほどロジカルではないが、志向性に於いて論理的であるような小説ができあがる。これは、中上にとっての問題が「血」といった物象から離脱しないからであったが、これはなんというか、セックスの問題と「血」の問題が結びつけようとして結びつく、つまりは性交みたいな事柄だからであった。これが、宇佐見氏の場合、語り手が女であり、子を産むということの問題となり、血の問題は、生まれさせられたという観念とならずに生むか生まないかという物質的な主体性の問題となる。宇佐見氏は作中で、主人公の語り手に処女懐胎みたいなものによる観念的解決の妄想を抱かせながら、最後は、生理痛というところに物語を落として逆に、自分が母親を産んだり殺したりする観念的な循環を断ち切って、狂気に陥った母親を中心とする家族を再構築しようとする。この最後が、いまの若者らしい合理的な優しさを感じさせて感動させられる。ネットの仲間を切り離すところも、ちょっとうまく行きすぎているような気がしないではないが……。おもったよりも、最近の社会問題みたいなものをたくさん盛り込んでいる話であって、法律や宗教で解決したがるせかいのなかで、そうではない人間としての合理性があるのだとつよく主張している小説のようにも思われるのだった。
これが、男のように生理痛がないとどうなったであろうか。熊野信仰や自分の先祖を探す旅に出てしまったかも知れない。高氏なんか、体が弱っていたせいなのか、「我は源家累葉の族也。王氏を出て不遠」とかいう理由だけで、「北条は俺に失礼」とか完全にいきり立っているのである。オマエは、源氏の一味かもしれんが、たんに母上の子供だ。
「心中に被思立けるをば、人更に知事無りけり」とか言うてるが、絶対にこのぐらいは人に言うてるね……。
はやくも、高氏以下の軍は、洛中へ入っていた。
廃墟。都の今はそれにつきる。
大内の森や里内裏にも、住まうお人はいなかった。
平家都落ちのむかしとて、こんなではなかったろう。焼けのこった公卿館や死の町の一角はみえるが、昼も人影は稀れで、ふと生き物の声がすると思えば、犬が子を産んでいる。
そのくせ、夜になると、夜の闇は不気味な脈を生き生きと打ち出して人間のうごきを感じさせてくるのであった。あらゆる悪と兇暴がその中でおこなわれているらしい。また敵とよび合う者同士が嗅覚を研ぎあって諜報の取りやりもしているらしい。しかし草ぶかい野の禽獣の生態みたいに、眼に見えるものではなかった。
――吉川英治「私本太平記」
ほんと吉川英治の文体は嫌いだよ……。「ふと生き物の声がすると思えば、犬が子を産んでいる。」といったところのセンスが凶暴である。禽獣はお前の方だ。