★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

歯噛みのカラクリ

2021-03-07 21:06:45 | 文学


大将のおはしつる本堂へ入つて見れば、よくあわてて被落けりと思へて、錦の御旗、鎧直垂まで被捨たり。備後三郎腹を立てて、「あはれこの大将、如何なる堀がけへも落ち入つて死に給へかし」と独り言して、しばらくはなほ堂の縁に歯嚼みをして立つたりける

木に漢詩を彫りつけた人――児島高徳は、岡山の児島出身だとか言われているが、まあそんなことはどうでもよく、たしかにちょっと劇的な立ち振る舞い方で場面をつくるひとである。ここでも、堂の縁に歯噛みをして立ち尽くす姿は、映画化前提みたいなかんじがする。国民的英雄に祭り上げられた人物であるが、実在も疑われている、まさにプライドそのものの運命を辿るような……

一方、逃げた大将は千種忠顕で、しっかり歌も残っている。「都思ふ夢路や今の寝覚まで いく暁の隔て来ぬらむ」

だいたい、人生逃げた方がよいときもあり、それでこそ後で威張れるということもあるのだ。たいがい我々はそんな卑怯者であり、この真実に耐えられない連中が、児島のような存在の夢を見ているのではなかろうか。

思うに、そういう作用は別にめずらしくもなく寧ろ退屈な心理的な劇である。しかし、最近私が思うのは、我々が常に職場と家庭、組合と町内会やサークル、学会といったものに、多重所属していることの効果についてである。近代の社会は、一応自主的な自治組織の集まりだという建前を崩さないが、この多重所属というありかたは、根本的に自治を行う心理のありかたと直結しているわけではなく、ある場合には、逃げ場の確保にもなるかも知れないが、そうは実際にはなりにくいのが現状だ。ことがそう簡単であったなら、いじめや引きこもりの問題はもっと解きやすいはずだがそうでもない。我々は多重に圧力を受ける人間となり、結局我々の同調圧力というのは、人間関係の輻輳のことではなかろうか。

上田雄一氏などがかんでいた『町内会の研究』を読んでいてそんな気がした。町内会は、占領下で禁止されたが、びくともしなかった。我々の社会は、町内会もどきをメンバーを変えて幾層にも掛けている社会だからであった。

樋口秀実氏がたしか論じていたことだが、日本の東亜共同体論みたいな超国家的で機能主義的なものが逆に中国の国家意識を目覚めさせることがあったんだろうが、これは反作用と言うよりある種の影響という感じがする。つまりは、その機能性というのは畢竟国家主義的なものなのであり、中国の庶民の世界に幾層にも掛けられている共同体を一部壊したかもしれないが、戦前のインテリが考えるより、共同体そのものが孤立していないためその個々の協同はあり得ず、ただの国家主義となる。我々は共同体に包摂されているというより、多くの共同体の求心性に関係づけられている孤立したモノであって、そのなかでは、ただのひとつの求心物に向かって孤立することをゆめみる。あるいは、それが、うえのような児島高徳かもしれないわけである。

――と考えてみたわけだが、われわれ個人は、ほとんどの所属を放棄してしまい、責任も放棄しているというべきかもしれない。だからこそ、夢みることさえ出来ないのだ。