げにも此の陣の寄せ手、かなわで引きぬらんもことわりなりと見給いければ、義貞馬より下り給いて、冑をぬいで海上をはるばると伏し拝み、竜神に向って祈誓し給いけるは、伝えうけたまわる日本開闢の主、伊勢天照大神は、本地を大日の尊像にかくし、垂跡を滄海の竜神にあらわし給えりと、吾が君其の苗裔として、逆臣のために西海の浪に漂い給う。義貞今、臣たる道を尽さんために、斧鉞をとって敵陣に臨む。其の志ひとえに王化をたすけ奉って、蒼生を安からしめんとなり、仰ぎ願わくは、内海外海の竜神八郎、臣が忠を鑑みて、潮を万里のほかに退け、道を三軍の陣に開かしめ給えと、至信に祈念し、自ら佩き給える金作りの太刀を抜きて、海中へ投げ給いけり、真に竜神納受やし給いけん、その夜の月のいり方に、前々更に干ることもなかりける稲村が崎、俄かに二十余町干上りて、平沙渺々のたり、横矢射んと構えぬる数千の兵船も、落ち行く潮に誘われて、遥の沖に漂えり、不思議というもたぐいなし。
とにかく、垂迹説というのは素晴らしいおもいつきであって、困ったら、あんたは偉い人の垂迹(仮の姿)であると言っておけばよいわけである。これで仏にしても神にしても、どちらが本地であろうとも仮の姿としてなんか見えている現象が逆に疑えなくなってしまうのだ。お前の見ているのは、現象ではない、本地の仮の姿だ。否定できんだろ?というわけだ。日本のモノ主義、すなわちアニミズムのようには喩えられるものへの飛躍が少ない、見えるものの絶対主義は、こうしてやんわりと「理屈」を持ったのであろう。詳しいことは知らないが、考えたやつの頭のいいことだけは確かである。
ここでは、海は竜神の仮の姿で、竜神は天照大神である。それが奇妙に見えるのは、普段は大日如来として仮の姿の中にいるからだ。そのひとは姿は見えなくてもそこにあり、海にあること自体も絶対的存在となる。もちろん、そうなるとアマテラスの子孫である後醍醐天皇が流浪していることもあくまで仮の現象でなくてはならない。もう現実は神話のごとく仏説のごとく、しかもみたままそのとおりにならなくてはならなくなってくるわけである。
ただし花粉や椰子の実の間にはまだ認められないが、少し大きな生物の群には、それぞれのモーゼがいたようである。彼らの感覚は鋭く、判断は早く、またそれを決行する勇気をも具えていた故に、是と行動を共にしておれば、百ある危険を二十三十に減少することはできたろうが、行く手に不可知がなお横たわるかぎり、万全とは言うことはできなかった。古来大陸の堅い土の上において幾度か行われた民族の遷移でも、さては近い頃の多くの軍事行動でも、勝って歓ぶ者の声のみが高く響き、いわゆる万骨の枯るるものが物言わなかったのである。まして海上の危険はさらに痛烈で、一人の落伍者逃竄者をも許さなかったことは、今さら改めてこれを体験してみるにも及ばなかったのであるが、そういう中にすらもなおこの日本の島々のごとく、最初僅かな人の数をもって、この静かなる緑の島を独占し、無論幾多の辛苦経営の後とはいいながら、ついには山々の一滴の水、または海の底の一片の藻の葉まで、ことごとく子孫の用に供せしめ得たということは、誠にたぐいもない人類成功の例であった。後代にこれを顧みて神々の隠れたる意図、神のよざしと解しなかったら、むしろ不自然であったろう。たとえ数々の物語は事実のままでなかろうとも、感謝のあまりにはかくも解し、またさながらにこれを信ずることもできたのであった。イスラエルの神などは始めに存し、この土この民を選んで結び合わせたのであったが、国が荒れ人がすでに散乱したので、勢い解釈を改めなければすまなかった。我々の国土はやや荒れたりといえども、幸いにして今も血を承けた者が住んでいる。すなわち再び国の成立について、まともに考えてみるべき時期ではないかと思う。
――柳田國男「海上の道」
考えてみると、柳田がこれを戦後に言っていることの意味は大きいかもしれない。戦時下に於いては、新田義貞みたいな大げさなモーゼが現実を絶対化しながら、無理なことを現実と言い張りつづけた。しかし、平和の中では、数限りないモーゼを想定してみなければ我々は生きられないと思ったのではなかろうか。