冬の夜の月は、昔よりすさまじきもののためしに引かれてはべりけむに、またいと寒くなどして、ことに見られざりしを、斎宮の御裳着の勅使にて下りしに、暁に上らむとて、日ごろ降り積みたる雪に月のいと明かきに、旅の空とさえ思へば、心ぼそくおぼゆるに、まかり申しに参りたれば、余の所にも似ず、思ひなしさへけおそろしきに、さべき所に召して、円融院の御世より参りたりける人の、いといみじく神さび、古めいたるけはひの、いとよしふかく、昔のふることども言ひ出て、うち泣きなどして、よう調べたる琵琶の御琴をさし出でられたりしは、この世のことともおぼえず、夜の明けなむを惜しう、京の事も思ひ絶えぬばかりおぼえはべりしよりなむ、冬の夜の雪降る夜は思ひ知られて、火桶などを抱きても、かならず出でゐてなぬ見られはべる
この色男は、年老いた斎宮にまで手を出そうというのかっ、――というわけではなく、自分の話に、冬と月、斎宮と琴、火桶を抱く、みたいな走馬燈のような風景を配置し、自分をよく見せようとしおって、けしからんこと限りなし。斎宮の存在がどういう意味を持っていようと、色男や更級日記の娘さんにとっては斎宮ってなんかいいよね色っぽいよね、なんか古い感じでいいよね、という感じになっていた可能性があると思うんだが、――こんど、本橋裕美氏の『斎宮の文学史』でも読んでみよう。
それは私が斎宮の御裳著の勅使で伊勢へ下った折の事です。伊勢に下っておる間、殆ど毎日、雪に降りこめられておりました。ようやく任も果てたので、その明けがた京へ上ろうかと思って、お暇乞に参上いたしますと、ただでさえいつも神々しいような御所でしたが、その折は又円融院の御世からお仕えしているとか云う、いかにも神さびた老女が居合わせて、昔の事などなつかしそうに物語り出し、しまいにはよく調べた琵琶までも聞かせてくれました。私もまだ若い身空でしたが、何んだかこうすっかりその琵琶の音が心に沁み入って、ほんとうに夜の明けるのも惜しまれた位でした。
――堀辰雄「姨捨」
堀辰雄によると、佐藤春夫や保田與重郎も更級日記を好んでいた。堀辰雄も好きであった。しかし、父母を捨てて夫とともに長野県に向かう場面で打ち切る堀辰雄は、なにかこういう作品をセンチメンタルな雲の中に放り込んでしまっているような気がして、私は昔から何か不満だった。
さうやつて半日近く姨捨山のほとりを歩いてから、私はまた木曾路へも行つて見た。その谷間の村々もまだ春淺い感じであつた。まなかひに見える山々はまだ枯れ枯れとしてをり、村家の近くには林檎や梨の木が丁度花ざかりであつた。其處でもまた私は古代から中古にかけての木曾路がいまの道筋とは全く異り、それらの周圍の山々のもつと奧深くを尾根から尾根へと傳つてゐたものであることを知らされた。私はそれらの山奧に、われわれの女主人公たちがさまざまな感慨をいだいて通つて往つたであらう古い木曾路が、いまはもう既に廢道となつて草木に深く埋もれてしまつてゐる有樣をときをり空に描いたりしては、何んといふこともなしに一人で切ない氣もちになつて、花ざかりの林檎の木の下などをぶらぶらしながら晩春の一日をなまけ暮らしてゐた。
――堀辰雄「姨捨記」
「何んといふこともなしに一人で切ない氣もち」というところで、たぶん堀辰雄は嘘をついていると思う。「なまけ暮らし」たあげく、一生懸命空想してみたら、ちょっと空恐ろしかったというのが、本当のところだと思う。更級日記にある「余の所にも似ず、思ひなしさへけおそろしきに」みたいな箇所を堀は無視しがちだったような気がする。