いにしへのひじりの御代の政をも忘れ、民の愁、国のそこなはるゝをも知らず、万にきよらを尽していみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。「衣冠より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ」とぞ、九条殿の遺誡にも侍る。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉り物は、おろそかなるをもッてよしとす」とこそ侍れ。
考えてみると民主主義というのは、改革が難しい制度かも知れないのである。なにしろ、自分達で選んだ政治家の行っている政治なので、共依存の家族のようなものだ。家族のやることをなかなか攻められないだけでなく、昔の政治家はよい仁政をやったとかいう伝説が生まれにくい。なぜなら、前の政治家がダメダから取っ替えてるわけで、民主主義は自己否定の連続なのである。そこには、いまはやりの対話ではなく、弁証法がなければならない。――そこには、おそろしく不透明なほどの葛藤が必要なのだが、そういうことをきらって、きれいな合意形成とやらをやろうとするから、A対Bの戦いでAにしましたみたいな政治になりがちなのだ。
その点、徒然草の説教は、理想の天子をもちあげときゃ、いまの天皇だって批判できそうな勢いである。嘘でもイイのだ。聖なるものという観念が勝手に復活する様な制度にしておけばよいのである。民主主義にはそんなことはなかなか難しい。人工的にやろうとするとファシズムになる可能性がある。
そうでなくても、政治はそれ自体危機的であればあるほど、自ら権力の源泉であろうとして、それを脅かす教育や知を遠ざけてしまう。そして民主主義?だから、その政治に自らの肖像を見出し、シンパシイを持つ様に国民は知らず知らずに仕向けられている。共依存の家族の様に。教育のレベルが下がっているのは、自由や闊達さが失われ教師達の頭が恐怖で硬直しているからに他ならない。脅迫しているのは、政府と国民の共依存家族である。彼らは、その絆=紐帯をまもるためには、教育にはこのままでいてほしいと願っている。
いにしへ聖者が雅典の森に撞きし、
光ぞ絶えせぬみ空の『愛の火』もて
鋳にたる巨鐘、無窮のその声をぞ
染めなす『緑』よ、げにこそ霊の住家。
聞け、今、巷に喘げる塵の疾風
よせ来て、若やぐ生命の森の精の
聖きを攻むやと、終日、啄木鳥、
巡りて警告夏樹の髄にきざむ。
往きしは三千年、永劫猶すすみて
つきざる『時』の箭、無象の白羽の跡
追ひ行く不滅の教よ。――プラトオ、汝が
浄きを高きを天路の栄と云ひし
霊をぞ守りて、この森不断の糧、
奇かるつとめを小さき鳥のすなる。
――啄木「啄木鳥」
啄木は別のいにしえの聖者を夢みた。彼もすぐ教師を辞めて東京に行ってしまった。